何でもない日のケーキ
洋菓子店の閉店まで、あと九分だった。
小嶋美柑は、ショーケースの前で波多野有紗に見つかった。手にしていたのは、一人用の小さなショートケーキ。今日が二十九歳の誕生日だとは、職場の誰にも伝えていない。
「誕生日、おめでとう」
「何でもない日だよ」
有紗は同じ部署で働く一つ年上の女性だった。半年前から週末に会い、互いの家へ泊まることもある。それでも美柑は、誕生日も記念日も聞かれるたび、笑って話題を変えた。有紗が平日の帰りに買ってくれるおにぎりや、黙って畳んでくれる洗濯物のほうが嬉しいとは言えなかった。
店員が閉店準備の札を出す。有紗はショーケースから二人用のケーキを選ばず、美柑の小箱へ細いろうそくを一本だけ追加した。
「祝われるの、嫌い?」
「大げさなのが苦手」
「私、何も用意してないよ」
それなのに、美柑の肩から力が抜けた。
以前の恋人は、誕生日だけは豪華だった。高い店、花束、長い手紙。けれど普段の日は連絡を返さず、熱を出しても来なかった。年に一度の演出を愛情だと言われるうち、美柑は祝われること自体を疑うようになった。華やかな一日を受け取れば、翌日からの寂しさまで我慢しなければならない気がした。期待しなければ、翌日の落差に傷つかない。
「本当に何でもない日だから」
「じゃあ、今日を特別にしない」
有紗はケーキを二つのフォークで食べようとも言わず、店の外まで持つだけだった。閉店の音楽が流れ、二人はベンチへ移る。
「来週の火曜、残業ない」
有紗が言った。
「誕生日じゃないし、何の記念日でもない。夕飯どう?」
美柑は、ろうそくに火をつける代わりにスマートフォンのカレンダーを開いた。来週火曜の十九時へ〈有紗と夕飯〉と入れ、翌週にも、その次の週にも複製する。
「何でもない日に会いたい」
予定を共有すると、有紗の画面が光った。美柑は小さなケーキを半分に切り、一本しかないフォークを先に有紗へ渡した。特別ではない夜の続きを、何度も作るために。