余白の訳者名

 佐和山未央が訳した小説に、訳者の名前はなかった。

 刊行直前、編集長の戸次修吾が奥付のゲラを赤線で消した。

「新人の名は売上にならない。《編集部訳》で出す」

「著者の確認も、私の名前で受けています」

「メールの返事をした程度だろ。君は下訳。表へ出る仕事じゃない」

 未央は千ページ近い原稿で、雪国の方言を日本の一地方へ置き換えず、響きだけ伝える言葉を探した。一文を決めるため、著者へ背景を尋ね、民謡の録音を聞き、声に出して夜明けまで比べた。

 戸次は戻ってきた質問票を「細かすぎる」と床へ落とした。だが記者向け資料には、その答えを《編集長による訳語設計》として載せ、自分が著者と相談したと説明した。

 刷り上がった見本を開くと、自分が何か月も向き合った言葉だけがあり、自分がいた痕跡は一行もなかった。戸次は記者へ「私の訳語選び」と語り、未央には拍手の合図を出す係まで命じた。

 発売記念の対談当日、未央は舞台袖で水と予備マイクを持たされた。

 来日した著者エレナ・ヴァルクは、最初の挨拶を終えると、客席ではなく袖を見た。

「ミオは、どこですか」

 戸次が笑って答える。

「翻訳は編集部全体の仕事です。個人名は重要ではありません」

 エレナは机上の日本語版を開いた。余白には、未央と交わした質問の番号が細かく書かれている。吹雪の音を《白い沈黙》とするか《雪の底》とするか、二人で何度も往復した跡だった。

「この本の声を作った人を、私は知っています」

 舞台後方のスクリーンへ、著者校正システムの履歴が映った。未央の質問は三百十二件。戸次の記録は、奥付から未央の名を削除した一件だけだった。

 戸次はマイクを切ろうとした。

「契約上、表記は出版社の裁量です」

 著者の権利代理人が立ち上がり、契約書を開いた。翻訳者の選定と氏名表記には著者の承認が必要、とある。

 エレナはサイン用のペンを置き、日本語版を閉じた。

「佐和山未央の名を戻すまで、この版の出版許諾を停止します」