使った日の丸印
桐生乃々佳が古書喫茶「算盤」の棚で見つけたのは、昭和三十六年の家計簿だった。
布張りの表紙に「倹約日記」と金文字があり、毎月の目標欄には「千円貯金」「外食なし」と几帳面に書かれている。けれど支出のいくつかには、赤い丸がついていた。
「靴 二千四百円 歩いても痛くない」
「診察 八百円 夜に眠れた」
「夜学 三千円 仕事を変えた」
赤は赤字を責める色ではなく、使ってよかった日を残す色らしい。巻末の貯蓄額は目標へ届いていなかったが、最後には「残高より、丸のほうを覚えている」とあった。
乃々佳には、学生時代から続く顎の痛みがあった。歯科で治療計画を出されているが、保険外の器具も必要で、まとまった費用がかかる。食べられないほどではない。忙しい時期を避け、もう少し貯金してから、と二年延ばしてきた。
口座には「結婚用」と名づけた積立がある。相手はいない。母に勧められ、二十二歳から毎月入れてきた。治療に使えば数字は大きく減る。いつか結婚するとき、準備不足の自分を責めるかもしれない。
閉店まで八分。店主は家計簿を検品し、何頁も記入済みだと確認した。古書としては使用感が強い。乃々佳は値下げされると思ったが、店主は値札をそのままレジへ打った。書き込みのない同年代の帳面より、むしろ少し高かった。
店主は赤い丸の頁へ、レシートを縦に挟んだ。合計金額の横に、古い赤鉛筆で小さな丸を一つ描く。人生訓ではなく、店の検品印のような素早い所作だった。
乃々佳は席で歯科の予約ページを開いた。いちばん早い治療開始日を選び、積立口座から必要額を移す。口座名も「結婚用」から「これから用」へ変えた。
数字が減る瞬間、胸の奥が痛んだ。けれど顎を噛みしめると、いつもの鈍い痛みが返ってきた。未来の誰かのためではなく、今日ここにいる身体から届く請求だった。
店を出て、乃々佳はレシートの赤い丸を見た。支出は消えない。治療も簡単ではない。
それでも家計簿には、貯められなかった日ではなく、歩けた日、眠れた日、仕事を変えた日が丸で残っていた。乃々佳は予約日を予定表へ入れ、その日にも同じ赤い丸をつけた。