傷梅のジャム

野上万里は、恋人へ別れの文面を書きながら、祖母の梅ジャムをトーストへ塗った。

病院から帰って四時間。検査結果の紙には、手術の日程を決めるよう書かれている。まだ二十八歳なのに、と医師の前では言えなかった。母にも恋人にも、定期検査だったとだけ伝えた。診察室で説明を聞きながら、恋人の顔より先に、仕事を何日休めるかを考えた。怖いと口にすれば生活全部が崩れるようで、予定表の空欄ばかり見ていた。

恋人は来年の部屋を探している。万里は、手術や治療へ巻き込む前に別れたほうがいいと思った。好きな人へ「病気になった私を選んで」と頼むことのほうが、病名を告げるより怖かった。

冷蔵庫の瓶は、祖母が去年作った最後の梅ジャムだった。煮た日は万里も台所にいて、傷んだ梅を多く捨てすぎて祖母に戻された。祖母は傷を見落とさず、かといって無傷のところまで一緒に捨てなかった。祖母は市場で安くなる傷梅ばかり買った。レシピ帳には、傷んだ箇所の見分け方と、煮始める順番が細かく残っている。

万里はパンの左半分だけにジャムを塗った。梅の酸っぱい香りが温かいパンから立ち、表面のジャムは舌へ粘りついた。裸の右半分はぱさつき、何度も水で流し込んだ。

先に何も塗っていない側を食べる。これからの生活を、恋人のいない半分として試すように。

けれど味のないパンを食べても、別れが正しいとは思えなかった。ただ一人で怖がる時間が長くなっただけだった。

最後に、ジャムを塗った一口が残る。万里は別れの文面へ戻った。

〈あなたにはもっと普通の〉

そこまで打った言葉を消す。「普通」を決めるのは病院でも万里でもない。

瓶の底を匙ですくい、残っていた裸の端へも薄く塗る。傷梅の果肉が一片、パンの角へ乗った。

万里はそれを食べきらず、一口だけ皿へ残した。スマートフォンで病院の予約票を撮り、恋人へ送る。

〈次の診察、隣にいてほしい。別れたいんじゃなくて、怖い〉

返信が来る前に、残した一口へラップをかけた。

一人で食べきるつもりだった朝食を、明日の自分へ残せたことが、今夜の万里にできた最初の頼み方だった。