共同口座、残高八百七円
共同口座の残高は、八百七円だった。
「三で割れない」
八木沢志穂が言う。
「二百六十九円ずつで、一円余る」
大丸悠貴は電卓を見せた。
吉良瀬尚は、空になったダイニングで缶コーヒーを振った。
「その一円、会社の資産にすれば」
会社ではない。三人は家賃と光熱費をまとめるため、口座に〈合同会社サンニン〉と勝手な名を付けていた。毎月二万ずつ入れ、洗剤も米も誕生日ケーキもそこから買った。最後の水道代が引かれ、残ったのが八百七円だった。
志穂は看護学校へ入り直す。悠貴は卒業後、県外の半導体工場で期間工になる。尚は司法試験の予備校へ通いながら、この町でもう一年アルバイトを続ける。
「尚が口座持ってれば」
悠貴が言う。
「三人の金を一人で持つの嫌だ」
「じゃあ解約」
「平日三時まで。今日、土曜」
志穂がため息をついた。
「最後まで使えないお金だね」
悠貴は財布から一枚のレシートを出した。三年前、三人で初めて買った共同生活用品。トイレットペーパー、食器用洗剤、安いフライパン。合計八百七円だった。
「偶然?」
志穂が聞く。
「レシート見て、残高合わせた」
「何それ」
「最後の電気代、俺が三百円多く入れた」
尚が笑った。
「思い出を演出する人、工場向いてなさそう」
「法律家志望に言われたくない」
「志望じゃない。まだ無職」
「私も学生に戻る」
三人は未来の肩書を言い直した。期間工、学生、無職。どれも入居した頃に想像した成功とは違った。
「八百七円で、同じ物買う?」
志穂が提案した。
「フライパン三人で分けるの?」
「一個買って、ここに置く」
「退去するのに」
「だから」
近所の店では、同じ商品はもう値上がりしていた。八百七円で買えたのは、紙皿、洗剤の小瓶、三本入りの歯ブラシだった。
三人はそれを未開封のまま台所へ並べた。次の入居者はいない。建物は翌月取り壊される。
共同口座は解約できず、残高も使い切れなかった。玄関を出る前、悠貴がチャット名を〈合同会社サンニン・解散〉へ変えた。八百七円は画面の数字として残り、一円も三人についてこなかった。