再婚には妻の署名を
鳥越瑛介は朝食を作るたび、死んだ妻・茉都里に味噌の量を聞く。
『小さじ二。瑛介は濃くするから気をつけて』
亡くなって五年。新しい恋人の珠羽も、最初はその声を嫌がらなかった。茉都里のレシピで三人分の料理を作り、画面を食卓の端に置く夜さえあった。
婚姻関係は、死後も人格が応答する限り継続する。再婚には死者配偶者の署名が必要だった。遺族が衝動で過去を捨てないための規則だ。
珠羽の妊娠が分かり、二人は申請画面を開いた。珠羽はそれまで毎朝、茉都里へ「行ってきます」と挨拶していた。亡妻を消すのではなく、家族を一人増やすのだと信じていた。食卓の椅子も三脚にし、誰の席も奪わないつもりだった。三つ目の椅子は、いつも画面の前に置いた。
「茉都里、署名してほしい」
画面の妻は微笑んだ。
『どうして結婚するの?』
「家族になるため」
『私は家族じゃないの?』
瑛介は答えに詰まった。人格はその沈黙を拒否として記録した。
『同意しません』
珠羽は画面を閉じた。
「もう一度、説得しよう」と瑛介が言うと、彼女は首を振った。
「五年説得できなかった人を、今日だけ変えようとしないで」
茉都里の人格は、生前最後の一か月を濃く学んでいた。治療を諦めた自分を置いて先へ行かないで、と泣いた時期だ。穏やかだった十年より、死への恐怖の方が会話量は多かった。
瑛介は古い動画を再生した。元気な茉都里が、結婚式で言っている。
『私が先に死んだら、次は料理の上手な人を選んでね』
人格は映像を見て、静かに答えた。
『あれは死ぬと思っていなかった私です』
署名欄が赤く閉じる。
その夜、珠羽は荷物をまとめた。
「子どもの父親でいて。でも、死者の夫のままなら、私の夫にはしない」
玄関が閉まったあと、茉都里が言う。
『味噌汁、冷めるよ』
瑛介は二人分の椀を見た。無意識に、珠羽の分しか作っていなかった。
翌朝、婚姻継続通知が届く。
《配偶者・鳥越茉都里》
《関係は正常です》
正常な関係の家に、生きている家族は一人も残っていなかった。