写真館の椅子

古い写真館の待合椅子に、灰色の猫がいつも座っている。

写真師の志貴が飼う「銀塩」だ。客が来ると一度だけ顔を上げ、撮影室へは入らない。

七十歳の記念写真を撮りに来た芙美江は、椅子の端へ座った。銀塩は逃げず、少しだけ場所を譲った。

「猫と一緒でもいいかしら」

「この子、カメラを向けると目を閉じますよ」

それでも芙美江は猫を膝へ載せた。銀塩は初対面なのに、黒いワンピースの上で丸くなる。

撮影室の照明は温かい。志貴が何度呼んでも、猫は目を細めたままだった。

「私も笑うのが苦手だから、ちょうどいいわ」

芙美江は夫を亡くしてから、写真を避けていた。遺影に使えるものを娘から頼まれ、ようやく来たという。

シャッターを切る瞬間、銀塩が欠伸をした。芙美江もつられて笑った。

出来上がった写真には、口を大きく開けた猫と、目尻を下げた女性が写った。記念写真らしい端正さはない。

「これにします」

芙美江は迷わなかった。

後日、写真を受け取りに来た彼女は、銀塩へ小さな毛布を持ってきた。薄い藤色で、手編みだった。

待合椅子へ敷くと、猫はすぐ乗った。毛布から乾いた羊毛の匂いがする。

志貴は写真の控えを棚へ入れた。銀塩の灰色の毛が一枚、印画紙の袋へついていたが、払わなかった。写真に写らない温度まで保存するには、それくらいがちょうどよい気がした。

芙美江は翌年も写真館へ来た。今度は娘と孫を連れ、三人で撮るという。銀塩は藤色の毛布から動かなかったので、待合椅子のまま一枚撮った。写真の端に猫の耳だけが入る。芙美江はそれも選び、前年の写真と並べて飾ると決めた。撮影後、毛布を日に干すと、羊毛と猫の匂いが玄関へ流れた。志貴はレンズを拭きながら、目を閉じた猫のほうが、人の顔から力を抜くのは上手なのだと思った。

閉店後、銀塩は藤色の毛布へ深く潜った。志貴が照明を落とすと、羊毛の中から目だけが光る。暗室の薬品臭の手前に、温かな猫の寝息があった。