冷房のない補習
補習教室の冷房は、初日に壊れた。
八月の午後、開けた窓から入るのは熱風と蝉の声だけ。数学教師は「精神力も鍛えられる」と言い、黒板に二次関数を書き続けた。対象者は私と鴻巣颯馬、二人きりだった。
鴻巣は期末で私より一点低かった。
「おまえが余計な見直し勧めるから、正解を消した」
「自分で消したんでしょ」
「責任は半分ある」
「ない」
先生が職員室へプリントを取りに行くと、私たちは同時に下敷きをうちわにした。鴻巣の方が大きいので、起きる風も強い。
「一問教えたら、三十秒あおぐ」
彼が言う。
「五十秒」
「四十」
交渉成立。私は平方完成を教え、鴻巣は律儀に四十秒、こちらへ風を送った。次は彼がグラフの範囲を説明し、私が四十秒あおぐ。補習はいつの間にか、正解の数より風を奪い合う勝負になった。黒板の公式より、互いの持ち時間だけは正確に覚えた。
最終日、先生が小テストを配った。
「八割で補習終了。届かなければ来週も」
私たちは顔を見合わせた。来週までこの暑さに耐えるのは無理だ。
問題を解く。汗が答案へ落ちそうになる。最後の一問で手が止まった。隣を見ると、鴻巣も同じ場所で鉛筆を止めている。教え合えば失格だ。私は黒板の隅に残る、昨日の式を見た。鴻巣が説明してくれた問題と似ていた。
答案が返る。私は八十二点。鴻巣は八十一点。
「勝った」
「一点で威張るな」
「補習初日から二連勝」
「期末は一点負けたから一勝一敗」
先生が呆れた顔で教室を出る。私たちは同時に机へ突っ伏した。冷房のない夏が終わった。
鴻巣が、最後に一度だけ下敷きを動かした。風が私の前髪を揺らす。
「これは?」
「卒業祝い。四十秒」
「一分にして」
「来年また補習になったら」
思わず顔を上げると、鴻巣は窓の外を見ていた。耳だけが赤いのは、暑さのせいにできた。
私は自分の下敷きで、彼へ風を返した。
「次は冷房のあるところで勝負する」
あの夏、数学の公式より長く覚えていたのは、四十秒ずつ交換した生ぬるい風だった。