割れない泡の廊下
入院している弟は、看護師を見るたび「痛い人」と呼んだ。
注射をするからだ。母は謝り、看護師は笑った。私は小学六年生にもなって恥ずかしいと思い、弟にやめろと言った。
病院の遊び場で、弟が石けんの泡を吹いた。
一つだけ天井へ届いても割れず、その瞬間、廊下の時間が止まった。
泡が浮かんでいるあいだ、私だけが動けた。
誰も動かない病院は、音のない水槽のようだった。
白衣の人たちは、みな同じに見えていた。でも近くで見ると、少しずつ違った。
いつも無表情な看護師は、眠る子の布団から落ちたぬいぐるみを、足で踏まないよう爪先に引っかけていた。
怖い声の医師は、診察室の外で、小さな患者に見せるための笑顔を鏡へ向けて練習していた。
受付の人の机には、退院した子どもたちから届いた葉書が、見えない側へびっしり貼られていた。
母は廊下の椅子で固まっていた。
弟の前では一度も泣かなかったのに、手の中のハンカチは濡れている。スマートフォンには、父へ送らなかった文章が残っていた。
「今日は私が怖いと言いたい」
私は母の隣へ座った。
止まった時間では、肩を抱いても気づかれない。それでも抱いた。
弟に強く言った自分も、本当は怖かった。注射も、検査結果も、母がいなくなるほど疲れた顔をすることも。
天井の泡がゆっくり揺れ、割れた。
音が戻り、母が突然こちらを見た。
「どうしたの」
「何でもない。ちょっと、怖いだけ」
言うと、母の顔がくしゃりと崩れた。
弟のところへ戻ると、さっきの看護師が注射を持っていた。
弟は「痛い人」と指をさす。
私は訂正しようとして、やめた。
看護師はしゃがみ、「そうです。なるべく少しだけ痛くする人です」と答えた。
注射のあいだ、私は弟の手を握った。
弟は泣いた。私も少し泣いた。看護師は何も言わず、終わったあと、星のシールを二枚くれた。
一枚は弟の腕に、もう一枚は母のハンカチに貼った。
泡はもうなかった。
それでも病院の白い廊下には、見えないところで誰かが誰かを支える、小さな丸い光がいくつも浮かんでいるように見えた。