千秋楽のあと五分

千秋楽の幕が下りてから、劇場が施錠されるまで二十分しかなかった。

 弥生は客席が空になるのを待ち、最後列から立った。出口へ急いだのに、ロビーで衣装のままの翠と鉢合わせた。

「来てたんだ」

「最後だから」

 五年ぶりの会話だった。

 翠が所属する小劇団は今夜で解散する。弥生と別れた原因も、この劇団だった。誕生日も旅行も公演で潰れ、弥生が「私と舞台、どっちが大事」と聞いた。翠は答えず、翌週、部屋を出た。

 好きだと言えない理由は一つ。舞台が終わった今なら戻れると言えば、彼女の夢が消えるのを待っていたように聞こえる。

「面白かった」

「義理で褒めなくていい」

「最後だから来ただけ。義理でもない」

 翠は額の汗を衣装の袖で拭いた。楽屋から「あと十分」と声が飛ぶ。

「このあと打ち上げ?」

「ある。でも、その前に衣装返して、メイク落として、劇場出ないと」

「忙しいね」

「昔から」

 責めるつもりのない一言が、二人の間に落ちた。

 弥生は鞄から一枚のハンカチを出した。五年前、翠が置いていったものだ。青い糸で小さな星が刺繍されている。

「返そうと思って」

「それで来たの?」

「最後だから」

 二度目の言い訳は、さすがに弱かった。

 翠は受け取らず、ロビーの壁にもたれた。

「来月から別の劇団に入る」

 弥生は顔を上げた。

「辞めるんじゃないの?」

「この劇団が終わるだけ。次は地方公演が多い」

「そう」

 胸の奥で、ほっとしたものと、がっかりしたものが同時に動いた。舞台が続くなら、昔と同じ問題も続く。それでも翠の夢が終わらなかったことが嬉しかった。

「じゃあ、そのハンカチ、いらない」

「どうして」

「次の公演で返して」

 翠は小さなチラシを差し出した。客席六十席の劇場。初日は二か月後だった。

「観に来る?」

 施錠まで五分。スタッフがロビーの照明を一つ消した。

 弥生はチラシを受け取った。

「最後だから来たんじゃない」

 三度目で、ようやく言い直せた。

「あなたの舞台が好きなのは、悔しいけど変わってない」

「私じゃなくて?」

「順番を聞く人には答えない」

 翠が笑った。昔なら、その笑顔を約束に変えようとした。今はしなかった。

 弥生はスマートフォンで次回公演の予約ページを開き、一席を購入した。連絡先欄には、五年前から変えていない番号を入力する。

 劇場の扉が閉まる直前、ハンカチを鞄へ戻した。返す日は、今日ではなくなった。