印鑑を返す日

挙式まで十分。滝口央はホテルのビジネスラウンジで、柚木紗英の前に赤い印鑑ケースを置いた。

三年前、二人で始めた小さな映像会社は半年で傾いた。紗英は「もう支えられない」と言って会社も央も離れた。彼は借金と機材だけを抱え、彼女を逃げた人間だと思ってきた。

今朝届いた連絡は、〈実印を持って式場へ来て。今日中に終わらせたい書類がある〉だった。

机にあるのは、連帯保証の解除申請書。紗英の名前がまだ残っていた。

「結婚するから、ようやく外すのか」

「逆。今日まで外せなかった」

添付の返済記録を見て、央は言葉を失った。会社が払えなかった月には、匿名名義から入金がある。金額は毎回、紗英の当時の給料では苦しいほどだった。

「これ、お前か」

「保証人を外れたら、銀行があなたへ一括請求する条件だった。だから残った」

「支えられないって言っただろ」

「恋人としては支えられなかった。でも、共同経営者として逃げたくなかった」

央は、ブロックされたと思っていたメールを開いた。迷惑メール設定の一覧に、会社ドメインが丸ごと入っている。倒産寸前に届いた大量の督促を避けるため、自分で設定したものだった。

紗英の送信履歴には、返済の相談と、最後の一文が何度も残っていた。

〈嫌いになったわけじゃない。あなたが私に頼るたび、恋人ではなく債権者になるのが怖い〉

真実は届かなかったのではなく、央が仕事ごと遮断していた。

ラウンジの入口に新郎が立っていた。彼は事情を知り、残額を一括で払うのではなく、央が自分で完済するまで待つことを選んだという。今日の書類は、最後の返済が昨日確認されたため出せるものだった。

「おめでとうを言いに来たんじゃない」と央は言った。

「分かってる。でも、来てくれてありがとう」

鐘が鳴る。央は解除申請書の指定欄へ実印を押した。朱肉を拭い、紙に残った円が欠けていないことを確かめ、赤いケースごと紗英へ返す。

会社の古い合鍵を机に置き、彼女が新郎のもとへ戻る前にラウンジを出た。