右親指の客
真柴倫生は二十七歳の生体認証技術者で、指印を使った古い本人確認制度を調べていた。栗坂村の宿帳には、署名の横へ右親指の印を押す習慣が残っている。
村では指紋を「帰り道の渦」と呼び、死者の指印だけは名前を書かず空欄にしたという。昭和四年の頁に、氏名のない鮮明な指紋が一つあった。
資料箱の蓋には注意がある。
《空欄の指紋に、自分の右親指を重ねてはいけない》
倫生は携帯スキャナーの倍率を合わせるため、自分の指を横へ置いた。だが紙がずれ、右親指が空欄の印へ一度だけ重なった。
冷たい墨が指先へ染みた。九十年前の指紋と、隆線の分岐まで完全に一致している。
宿の主人は比較結果を見て、「やっと本人が受け取りに来た」とだけ言った。
倫生は資料を返し、その日のうちに帰宅した。手を洗っても親指の中心に黒い渦が残る。
翌朝、スマホのロック解除履歴に午前三時十二分の記録があった。右親指で成功。倫生は眠っていた時刻だ。位置情報は栗坂村。
会社の入退室システムにも同時刻の認証があり、監視カメラには誰も映っていない。管理者権限で指紋を削除しようとすると、登録者が二名表示された。
宿泊者1:真柴倫生
宿泊者2:氏名空欄
黒い渦は日ごとに指の付け根へ広がった。コンビニの決済、会社の複合機、病院の受付まで、触れていない端末が先回りして本人確認を済ませる。健康アプリには九十年以上分の歩数履歴が追加され、最初の記録地点は栗坂村の宿だった。監視映像を一コマずつ送ると、誰もいない画面の端から右親指だけが現れ、センサーへ押しつけられている。
右手で物を持つたび、知らない記憶が短く浮かんだ。囲炉裏、土間、古い帳場。どれも九十年前の宿で、最後には現在の倫生が入口から入ってくる。
二件目を選ぶと、スマートフォンが振動した。背面の指紋センサーへ、内側から指を押し当てられた感触がある。
画面に確認文が出た。
《空欄の宿泊者を主利用者に変更しました》
その直後、倫生の右親指では端末が開かなくなった。