名前で呼ぶ朝
逢坂理雨は、人を役割で呼ぶことが多かった。店では「新人さん」「店長」、実家では「お母さん」。名前を呼ぶと、相手との距離を自分で選んだようで落ち着かなかった。役割なら間違えにくく、必要なことだけ伝えられる。催事では人の入れ替わりが早く、名前を覚えても二週間後には会わないことが多い。理雨は効率的な距離だと思っていた。けれど自分も「担当の人」と呼ばれ、休憩を忘れられ、意見ではなく指示だけを受け取るたび、薄い透明板の向こうにいる気分になった。売り場では気配り上手と評価されたが、後輩が辞めると聞いたとき、理雨はその人が何を好きだったか一つも知らなかった。仕事を円滑にする距離が、いつの間にか誰にも近づかない壁になっていた。
催事の二週間、理雨は百貨店近くの寮で島津葉月と同室になった。葉月は各地の売り場を渡り歩く販売員で、初日から警備員も清掃員も名前で呼んだ。名札を覚えるためのメモは作らない。間違えればその場で訊き直し、翌朝また呼ぶ。理雨には、名前を覚えることより間違いを見せるほうが難しく思えた。名札が裏返っている人には、わざわざ訊いた。
ある夜、理雨が電話で「新人さんに明日の箱を運んでもらいます」と話していると、葉月が化粧を落としながら訊いた。
「一番長く呼んでない名前、誰の?」
「名前を知らなくても仕事はできます」
葉月は鏡越しに理雨を見たが、反論しなかった。
「明日、頼み事の前に一回だけ名前を呼んでみて。名字でもいい」
それだけ言い、濡れたコットンを捨てた。
翌朝、売り場では搬入が遅れていた。理雨は新人へ、予定どおり箱を運ぶよう指示しようとした。彼女はまだ制服の袖を直しながら、棚の配置図をじっと見ている。いつもなら「新人さん、先に倉庫へ」と言う場面だった。その呼び方なら、相手が昨日考えたことも今日困っていることも、全部ひとまとめにできた。
名札には「藤野」とある。理雨は昨日まで、その文字を読もうともしなかった。
「藤野さん」
呼ぶと、相手が顔を上げた。指示を続けようとして、理雨は配置図に付いた小さな書き込みに気づいた。新人が何か考えていた跡だった。
理雨は箱を指す手を下ろした。
「藤野さん、この並べ方、どうしたい?」
初めて名前の後ろに、命令ではなく質問を置いた。