名字を剥がす夜

別れた恋人は、郵便受けから自分の名字を剥がしてほしいと言った。

「右側の、小さいほうだけ」

比良坂美緒は、玄関の内側で靴を履いた。二人の名字を並べたラベルは、別れて半年たってもそのままだった。恋人が部屋を出たあとも、通販の箱や銀行の封筒が時々届いた。

今日は病院から一時間だけ帰宅している。もう次の帰宅はないと聞かされていた。

「郵便局に転送届を出せば済むよ」

「出した。でも、剥がしてないのが気になる」

「私が気にしてないんだからいいじゃん」

恋人は居間のソファで毛布を肩まで掛けたまま、「頼んだ」とだけ言った。

美緒は共用廊下へ出た。郵便受けの銀色の扉に、透明テープで二枚の白い紙が貼られている。左が美緒、右が恋人。文字は恋人の手書きで、美緒の名字の最後だけ少し右上がりだった。

入居した日の夜、表札を注文するお金が惜しくて、コピー用紙を切って作ったものだ。恋人は定規まで使ったのに、二枚の幅はそろわなかった。「あとでちゃんとしたのを買おう」と言いながら、五年そのままだった。

爪で右側の角を起こす。半年分の日差しと雨で、テープは硬くなっている。無理に引くと紙だけが破れた。

美緒は部屋へ戻り、ドライヤーを取った。恋人は目を閉じていたが、音を聞いて「熱くしすぎないで」と言った。

廊下のコンセントに延長コードをつなぎ、弱い温風を当てる。夜勤へ出る隣人が通り、何をしているのかとは聞かず、コードをまたいだ。透明テープが柔らかくなり、角が持ち上がった。美緒は途中で紙が裂けないよう、息を止めてゆっくり引いた。恋人の名字が、紙ごと扉から離れていく。

下には四角い粘着跡が残った。これで終わりにしてもよかったが、恋人なら気にする。美緒は消毒用アルコールを布へ染み込ませ、何度もこすった。

銀色の表面に、自分の顔がぼんやり映る。左側の名字だけが残り、郵便受けが急に広く見えた。

最後のべたつきを指の腹で確かめる。何もつかなかった。

美緒は剥がした紙を二つに折り、粘着面どうしを重ねた。