問診票のハンドルネーム

青柳茉莉は、健康診断で病気より先に社会的な死を迎えた。

受付の女性が待合室へ向かって、よく通る声で呼んだのだ。

「『岳の前髪になりたい』さま、問診票をお願いします」

十人ほどが一斉に顔を上げた。

茉莉は男性アイドル〈PRISMATIC〉の岳を応援している。予約サイトにSNS連携でログインしたせいで、表示名がファン用アカウントのまま登録されたらしい。職場の集団健診で、隣には同じ部署の人までいる。しかも茉莉は、普段『SNSはほとんど見ません』という顔で広報資料を作っていた。待合室の端では課長が新聞を広げ、同期が番号札をいじっている。逃げ場のない蛍光灯の下で、ファンアカウントだけが大声で現実になった。

「青柳です」と名乗る声が裏返った。

受付は画面を見て「ああ」とだけ言い、修正を始めた。だが後ろで誰かが吹き出した。茉莉は問診票で顔を隠し、今日一日休もうかと本気で考えた。

採血室へ入ると、看護師の砥上美代が腕を消毒しながら言った。

「私は前に、通販サイトで『納豆撲滅委員長』のまま病院へ荷物を送ったことがあります」

茉莉は思わず顔を上げた。

「看護部長が受け取りました。人は案外、いろんな名前で生きています」

岳のファンなのかと聞かない。趣味を深掘りせず、ただ恥の大きさを同じ床まで下ろしてくれた。

採血後、受付で本人確認を求められた。

「お名前をお願いします」

「青柳茉莉です」

茉莉は答えてから、逃げるように終わらせるのをやめた。

「さっきの表示名も、私です。修正はお願いしますけど、間違いではありません」

受付の女性は一瞬きょとんとし、それから「承知しました」と笑わずに頷いた。

会社へ戻る途中、同僚からチャットが来た。

〈岳ってどの人? 前髪そんなにいいの?〉

からかいではなく、素朴な質問だった。茉莉は公式写真を一枚選び、〈この右の人。前髪は今日も完璧〉と送る。

送信者名は青柳茉莉。でも文末には、いつものファンアカウントと同じ星を付けた。