固いパンのやわらかな晩

 海老名郁の隣に住む紗千は、紙袋から固くなったバゲットを三本取り出した。

「娘の店で売れ残ったの。捨てるのが惜しくて」

「歯が欠けそうですね」

「だから、柔らかくする料理を考えて」

 郁は食品会社を辞めたばかりだった。新商品の企画を何年も担当し、売れ残りや廃棄の数字に追われてきた。最後は、自分が考えたものが棚から消えるたび、自分まで不要になった気がして退職した。

 料理をする気力もなく、台所はきれいすぎるほどだった。

 二人はパンを薄く切り、牛乳と卵を合わせた液へ浸した。耐熱皿へ並べ、炒めた玉葱、ほうれん草、ベーコンを挟む。上から残りの卵液を注ぎ、チーズをたっぷり散らした。

「フレンチトースト?」

「夕飯だから、パンのグラタン」

「名前は後からでいいのね」

 紗千は笑った。

 オーブンの中で、乾いたパンが液を吸い、チーズがふつふつと溶けた。表面に焦げ目がつくと、牛乳とバターとベーコンの匂いが台所へ広がる。

 熱い皿を二人で運び、木の匙ですくった。外側は香ばしく、内側のパンは茶碗蒸しのように柔らかい。

「売れ残りでも、別の名前になれば食べられるんですね」

 郁が言う。

「名前が変わらなくても食べられるよ」

「でも、価値がないものみたいで」

「固いパンは、固いパンなりに待ってただけじゃない?」

 紗千は焦げた角を選んで皿へ載せた。

「浸してくれる人を」

 郁は会社にいた頃、採用されなかった企画書を何冊も持ち帰っていた。捨てるつもりだったが、別の仕事へ使えるものがあるかもしれない。

「私も少し、牛乳に浸かります」

「長すぎると崩れるよ」

「加減が難しいですね」

「夕飯を食べながら考えなさい」

 残ったグラタンは、紗千の娘の店へ翌朝持っていくことになった。売れ残ったパンが、朝食として店へ戻る。

 郁が皿を洗う横で、紗千は次の固いパンの使い道をもう相談していた。

 部屋には焼けたチーズと胡椒の温かな香りが残り、空白だった明日の予定へ、ひとつ小さな献立が書き込まれた。