地下二階のエレベーター
午前九時。御厨峻は、引き払い直前の部屋で茅原深雪へ送った。
〈九時十分まで待つ。戻らないなら、鍵を返す〉
未読。
部屋は空だった。食卓も、本棚も、深雪の靴もない。窓辺に黄色いマグカップだけが残されている。取っ手の欠けを峻が接着し、深雪がその上から小さな星を描いた。二人が初めて一緒に買った食器だった。
一か月の別居を終え、今日ここで話すはずだった。
九時三分。未読。
管理人が玄関から声をかける。
「退去確認、もう始めますか」
「あと少しだけ」
峻は黄色いマグを段ボールへ入れた。深雪が家具を全部運び出したのなら、答えは出ている。彼女は言葉にせず、暮らしそのものを片づけたのだ。床に残る四本脚の跡だけが、食卓を挟んで笑っていた頃の広さを示していた。
九時六分、エレベーターの表示が地下二階で止まった。
地下駐車場は圏外になる。峻はその事実を知っていた。けれど深雪がそこにいるとは考えなかった。
九時八分。退去書類へ署名する。
「鍵を返したら、契約終了です」と管理人が言う。封筒の口は、もう剥離紙を外されていた。
携帯が震えた。
〈地下の倉庫にいる。持っていった食卓と本棚、全部戻してる。もう一度ここで暮らしたい〉
送信時刻は九時一分。電波の届く階まで、七分かかった。
続けて写真が届く。台車に載った古い食卓。その上に、黄色いマグと対になる青いマグがある。
峻は段ボールを開けた。自分の手元にも黄色がある。深雪は対の片方だけを先に運び、もう片方を迎えに戻ってきたのだ。
九時九分、エレベーターが一階へ上がり始める。
管理人が差し出す返却封筒の向こうで、扉が開いた。深雪が台車を押している。髪に埃をつけ、息を切らして笑った。
「読んだ?」
峻の最初のメッセージには、ようやく既読がつく。
深雪は青いマグを掲げた。「まだ、揃うよ」
九時十分。峻は黄色いマグを箱から取り出した。二つを並べれば、星の欠け方までつながる。
彼は深雪を見たまま、部屋の鍵を管理人の返却封筒へ入れ、封をした。