塩を流した水門の鍵

豊穣祭の朝、領内最大の麦畑が白く枯れた。

農地管理官ノエマ・ハーベルの小屋から空の塩袋が見つかり、領主オルシュ伯は村人の前で彼女を指さした。

「収穫予測を外した責任を、土のせいにするため自分で畑を潰したな」

ノエマは、夜中に灌漑水へ塩が流された跡だと訴えた。伯は「水門の鍵を持つのは管理官だけだ」と笑い、全損の賠償契約へ署名させようとする。

「署名しなければ、家族の農地まで没収する」

ノエマは羽根ペンを取らず、水門守の記録石を運ばせた。

灌漑水門は、開閉した鍵の紋章と時刻を石へ刻む。昨年、伯が水泥棒を捕らえるため導入し、「領主の鍵も例外なく記録せよ」と命じた設備だった。

石に触れると、深夜一時、伯爵家の双角紋が浮かぶ。

「管理官が私の鍵を盗んだ!」

伯は叫んだが、記録石は開閉時の命令も一文だけ残していた。

『塩車を第三水路へ入れろ。朝になれば、女の小屋へ袋を置け』

オルシュ伯自身の声だ。

さらに塩袋の納品書が出された。購入者は伯爵家。用途欄には〈ノエマ管理地の収穫不能化〉とあり、支払いを急がせるため伯が直筆で承認していた。隠語にすらしなかったのは、領内で自分の帳簿を調べる者はいないと思っていたからだ。

目的は、収穫失敗を理由に農民の土地を安値で取り上げ、隣国商会へ売ること。売買仮契約にも伯の署名があった。

ノエマは賠償契約を火鉢へ落とす。

祭壇にいた王室監察官が封書を開いた。

ノエマは枯れた麦を一株抜き、根元の土を王室監察官へ渡した。塩害は第三水路沿いだけに集中し、彼女が管理する他の畑にはない。しかも伯が買った塩には交易税を免れるための赤い追跡砂が混ぜられ、土から同じ粒が出た。村人たちは、土地没収の契約を待っていた伯爵家の測量杭も引き抜いて壇上へ並べた。枯れた穂を握る老人は、ノエマが夜通し土を洗い、残った畑を守ったと証言した。領主が破壊した翌朝にも、彼女は村を救う仕事をやめていなかった。

「オルシュ伯。領民財産への破壊工作と冤罪捏造により、爵位停止ならびに身柄拘束を命ずる」