声の質屋
地下道の角に、「声を預かります」と青い看板を出す質屋があった。
自分の声を一日預ければ、亡くなった人の声を一言だけ聞ける。
母を亡くした料理人は、どうしても聞きたいことがあった。
母の店を継いだが、同じ味にならない。
常連客から「お母さんの方がおいしかった」と言われるたび、自分が店を壊している気がした。
声を瓶へ預ける。
喉から音が消え、店主が小さな受話器を渡した。
受話器の向こうで、母が言った。
「あなたの味で作りなさい」
それだけだった。
料理人は反論したかった。
客は母の味を求めている。
店の看板も、レシピも、母の物だ。
だが声は出ない。
店へ戻ると、娘が厨房で待っていた。
学校を辞めたいと言い出して以来、二人は喧嘩している。
料理人は、娘にも店を継いでほしいと思っていた。
口を開いても音がないので、娘が一方的に話した。
「お母さんは、自分が継いで苦しかったから、私にも同じ道を歩かせたいの?」
料理人は首を振ろうとした。
けれど本当に違うのか分からなかった。
娘は続けた。
「店が嫌いじゃない。でも、今は音楽をやりたい」
いつもなら、生活できるのか、逃げではないか、と遮っていた。
声がないため、最後まで聞いた。
夕方、常連客が来た。
母の味と違うとまた言われた。
料理人は紙へ、
「今日は私の味です」
と書いた。
客は一口食べ、
「少し辛いね」
と笑った。
「でも、これはこれで覚えるよ」
日没と同時に声が戻った。
最初に娘の名を呼んだ。
「音楽をやりなさい」
と言うつもりだったが、母の言葉をそのまま渡すのは違う気がした。
「あなたの味を、聞かせて」
娘は泣き、
「料理じゃないよ」
と笑った。
店の料理は少しずつ変わった。
母の出汁を残し、香辛料を足し、新しい献立を作った。
去る客もいれば、新しく来る客もいた。
声の質屋は二度と見つからなかった。
料理人は、母の一言を正解として守らなかった。
迷うたび、自分へ問い直した。
これは誰の味なのか。
誰かの期待に似せていないか。
亡くなった人の声を一度聞くため、一日黙った。
その代償で、今まで聞こえなかった生きている人の声が、ようやく最後まで届いた。