契約日の余白
伊吹が作った賃貸契約書には、入居日が一か月早く記載されていた。
九月一日を、八月一日と入力した。まだ署名前で、法的な効力はない。だが借主は遠方から来店しており、説明を始めて十分後に気づいた。訂正印を使うより、書類一式を出し直す必要があった。
「確認してまいります」
伊吹は応接室を出て、給湯室でメールを開いた。
失敗の報告を書くとき、彼女の文章は長くなる。
《私の不注意により、多大なるご迷惑をおかけし、社会人としてあってはならないことで……》
謝罪を重ねれば重ねるほど、先に自分を罰せられる。相手が怒る余白を、自分の悪口で埋めておきたかった。
上司への下書きは、すでに十行になっていた。
伊吹は全部消す。
《契約書の入居日を八月一日と誤入力しました。正しくは九月一日です。署名前に判明。書類を再出力し、十五分後に説明を再開します。確認者欄は未記入でした。申し訳ありません》
謝罪は一度だけにした。最後に、《再出力の承認をお願いします》と足す。
送信すると、文章の余白が怖かった。上司が何を思うか、そこにいくらでも書き込める気がした。
返事は《承認。先にお客様へ待ち時間を伝えて》だった。
伊吹は応接室へ戻り、誤りと待ち時間を説明した。借主は腕時計を見たあと、「電車には間に合いますか」と聞いた。伊吹は乗換時刻を調べ、間に合わない可能性も含めて答えた。
新しい書類を読み上げる。九月一日。今度は指で日付を押さえた。
契約は予定より二十二分遅れて終わった。客は急いで駅へ向かい、伊吹に笑顔を残さなかった。
閉店後、上司から確認手順について注意を受けた。伊吹はメモを取り、二度目の謝罪を飲み込んだ。必要なのは返事ではなく、日付欄と確認者欄を並べることだった。
帰りの電車で、送ったメールを読み返したくなった。
伊吹は開かず、通知一覧から消した。あの短い文章には、自分を傷つける言葉が足りないのではない。仕事に必要なことが、ちょうど入っていた。伊吹は読み返しの回数を、そこで一回に止めた。