好物の煮物

狭間実梨の煮物を、義母の鶴乃はいつも一口で下げた。

「味がぼんやりしている。うちの味を覚える気がないのね」

親戚が来れば、作ったのが実梨でも「私が教えた」と言った。義姉の佳苗も、夫の利久も、鶴乃の機嫌を取るために笑った。実梨が料理学校の講師に選ばれたときも、鶴乃は「家の味を盗んだおかげ」と言い、祝いには来なかった。

その鶴乃が口腔の手術を受けたあと、食べられるものが急に減った。病院食を拒み、実梨の里芋の煮物だけを食べたいと言う。

退院前、佳苗は実梨へ献立表を渡した。

「毎日三食、柔らかさを変えて作って。母さん、あなたの味なら食べるって」

利久も続ける。

「店は辞めればいい。料理はどこでもできるだろ」

実梨は病院の調理室を一度だけ借り、鶴乃が安全に食べられる固さを管理栄養士と確かめた。そのうえで、小さなノートを鶴乃の前へ置いた。里芋の選び方、出汁の温度、嚥下状態に応じた刻み方。病院の管理栄養士と相談し、施設でも再現できるよう数値まで記してある。

佳苗が喜んだ。

「じゃあ、これを持って実家へ来てくれるのね」

「レシピだけです」

実梨は来月から、遠方のホテルで総料理長補佐になる。利久が母との同居を勝手に決めた日、夫婦は別居に入った。仕事を捨てて介護する意思はない。

鶴乃が細い声で言った。

「私の好物を作れるのは、あなたでしょう」

「作れます。でも、作れる人の人生まで所有できるわけではありません」

利久がノートをつかむ。

「施設は金がかかる。家で看れば済むんだ」

管理栄養士はノートを受け取り、入居予定の介護施設へデータを送った。鶴乃の預金と、三人の子どもの負担で費用を賄う計画も決まっている。

佳苗は、相続分が減ると抗議した。

実梨は答えず、最後に作った煮物の器を鶴乃の前へ置いた。

鶴乃が一口食べたところで、施設の栄養士から返信が届く。

《レシピ受領。以後の調理、当施設が引き継ぎます》