妻と呼ばれた朝

眠りの呪いを受けた者は、婚姻を結んだ相手を「妻」と呼べば目覚める。

ただし呼ばれるたび、妻は夫との記憶を一つ失う。

ネフェリは王子リオスの寝台脇で、婚姻契約書へ署名した。

二人は幼なじみだった。彼が王子だと知らなかった九歳の夏、城壁の外で泥団子を投げ合った。十四歳で身分を知り、距離を置いた。十九歳の夜、彼は厨房口まで来て「王子でなければ」と言いかけた。

その続きを聞く前に、呪いの矢を受けた。

目覚めさせるには正式な妻が必要だ。王は隣国の姫との婚約を守るため、ネフェリへ一日の契約結婚を命じた。王子が目覚めれば即座に離縁し、婚姻記録も焼く。

報酬は、病気の父の治療費だった。

「一度呼ばれるだけです」と侍医は言った。「失う記憶も一つ。大した代価ではないでしょう」

大したものかどうかを、他人が決める。

ネフェリは持ってきた小箱を開けた。中には、泥のついた青い石、半分に割れた木笛、彼が厨房へ忍び込むとき使った曲がった鍵がある。どの記憶を魔法が奪うかは選べない。箱の品だけが残り、意味を失うこともある。

彼が初めて笑った日かもしれない。

雪の日に肩へ外套を掛けてくれたことかもしれない。

「王子でなければ」の続きへ、自分が勝手に与えた答えかもしれない。

父は治療を断った。

「おまえが大事にしてきた日々を、私の明日と交換するな」

それでもネフェリは署名した。父のためだけではない。王子が眠ったままなら、王は戦を始める。彼が止めようとしていた戦だ。

契約の指輪をはめると、寝台の周りに淡い光が満ちた。

「目覚めたあと、私を覚えていなくても構いません」とネフェリは侍医へ言った。「それより、私が何を忘れたか教えないでください」

教えられれば、失った穴を一生覗き続ける。

彼女はリオスの冷たい手を握った。

長い眠りの底で、彼の唇がわずかに動く。

「……妻」

瞼が開いた。

ネフェリは泣きながら笑う青年を見つめ、なぜ彼の左眉に小さな傷があるのか、どうしても思い出せなかった。