家事時間の相続

夫の死後、八木沢紗良の口座へ二十四年が振り込まれた。新しい家事精算法により、婚姻中の無償労働が相続時に清算されたのだ。料理、洗濯、育児、介護。家族管理AIの記録を合計すると、夫が受け取った紗良の時間は二十四年と三か月だった。

八十二歳の紗良は、突然この町で最も長い残高を持つ老人になった。二人の息子は喜び、若返り治療を勧めた。治療に二十年払えば、肉体年齢を四十代へ戻せる。残った四年は自分たちへ譲ればよい、と遠回しに言った。

「お母さんが若くなれば、また孫の世話もできる」

その言葉で、紗良は申込書を閉じた。若返った先にも、また誰かのための家事が並んでいる。嫌だったわけではない。家族を愛していた。ただ、自分の時間が愛情と同じ意味だと思われるのは、もう十分だった。

紗良は楽器店へ行った。少女の頃に諦めたチェロを買うと、価格は三日だった。初心者教室は月二時間。息子たちは「今さら何になる」と怒った。紗良も、何にもならないと思った。だから選んだ。

指は思うように動かず、弓は震えた。最初の発表会で弾いた曲は途中で止まり、客席から孫の笑い声がした。紗良も笑い、最初から弾き直した。失敗した七分が、人生で初めて誰の役にも立たない七分だった。

二年後、息子の一人が離婚し、しばらく家へ戻ってきた。紗良は食事を作らなかった。冷蔵庫の使い方だけ教え、夕方になると練習へ出た。息子は初めて自分で味噌汁を作り、焦がした。

二十四年は、夫から返された時間ではなかった。返されたからといって過去が空くわけでもない。それでも紗良は、残高を未来の家事へ予約しなかった。

九十歳の誕生日、彼女は家族の前で一曲を最後まで弾いた。拍手の長さは四十秒。もちろん、誰の口座からも引かれなかった。

残高の大半は、結局使い切れないかもしれない。それでも紗良は息子たちへ、生前贈与の代わりに家事の分担表を渡した。時間を残すより、自分の時間を自分で使う姿を残したかった。孫は発表会の帰り、チェロを習いたいと言った。紗良は「何にもならなくてもいいなら」と答えた。