小鹿が運ぶ重さ

母を支援付き住宅へ移す日、娘は古い足踏みミシンを運ぼうとしていた。

母が四十年使った物だ。

引っ越し業者は重すぎると言い、施設側も置き場所がないと断った。

玄関先に、鹿の角のような髪飾りを付けた少女が現れた。

娘が若い頃、道路の柵へ挟まった小鹿を助け、森へ戻したことがある。

少女はその鹿だった。

「重い理由を持ち主が言えた物だけ、運べます」

娘は、

「家族の思い出だから」

と言った。

少女が持ち上げようとしても、ミシンは動かない。

母は椅子へ座り、しばらく黙った。

「これは、働くのをやめられなかった重さ」

と呟いた。

夫の収入だけでは足りず、母は近所の縫い物を請け負った。

子どもが眠ったあとも踏み板を動かした。

皆は器用な母を褒めたが、本人は何度も捨てたかったという。

娘は驚いた。

母がミシンを愛していると思い、施設へ持っていこうとした。

母の人生を守るつもりで、母が手放したい物を重くしていた。

少女がミシンへ手を触れる。

今度は少し持ち上がった。

「運びますか」

母は首を振った。

「持っていったら、また縫えと言われる気がする」

二人は地域の工房へ寄贈することにした。

少女はミシンを軽々と背負い、工房まで運んだ。

夕方には、子どもたちが踏み板を面白がって動かしていた。

新居へ持っていく物を選び直す。

母は小さな針山を指した。

娘が、

「それも仕事の道具でしょう」

と言うと、

「これは、あなたが初めて縫った」

と答えた。

針山は布が歪み、綿が片側へ寄っている。

「重い理由は?」

少女が尋ねる。

母は笑った。

「捨てたら、娘が下手だった証拠がなくなる」

針山は元から軽い。

少女の助けは要らなかった。

引っ越し後、母は縫い物をしなくなった。

代わりに施設の読書会へ参加し、若い頃に読みたかった本を借りた。

娘は工房を時々訪ね、ミシンの手入れを手伝う。

小鹿は森へ消えた。

恩返しで運んだのは、思い出そのものではない。

誰のために重くしていたかを言葉にし、持っていく物と置いていく物を、本人へ返す役目だった。