展示品には触れない
「展示品には、触れないでください」
王立武具博物館の研磨係ガロは、見学客へ一日じゅう同じ注意を繰り返していた。
子どもは兜を叩き、貴族は槍の穂先を指でなぞり、兵士は自分の剣のほうが上だと笑う。ガロは彼らが去ったあと、残った指紋を一つずつ磨いた。
案内人セシアは、閉館後の西展示室で彼を手伝っていた。
「この黒騎士鎧、今夜だけ別館へ移すそうです」
「移動許可札がありません」
「でも館長の命令だと――」
言い終える前に、鎧の目庇が赤く光った。
展示台の固定具が弾け、黒騎士鎧が自ら立ち上がる。内部は空なのに、両手剣を振りかぶった。鎧に封じた戦鬼が、偽の移動命令を餌に目覚めたのだ。
セシアは壁際へ追い詰められた。
ガロは研磨布を右手に巻き、左手で細い錆取りへらを持った。
鎧の大剣が落ちる。
彼は一度だけ、へらを滑らせた。
甲高い音とともに、大剣がセシアの鼻先で止まる。鎧を覆っていた赤い光だけが、縦に二つへ割れていた。続いて胸甲の内側から黒い糸が一本抜け、床へ落ちて灰になる。
鎧そのものには傷一つない。留め金も装飾も、製作当時のままだ。
《無傷解体》。敵の装備を壊さず、宿る呪いだけを斬る。国宝を百点救った剣聖ガロの絶技だった。彼は王命を拒んで処刑されたと、展示解説には書かれている。
ガロは空になった鎧を元の姿勢へ戻し、飛んだ固定具を締め直した。床の灰を刷毛で集め、赤い光が焼きつけた跡を研磨剤で消す。最後に、戦鬼が握った大剣の柄を念入りに磨いた。
「解説板、直したほうがいいですか」
「史料は史料です。私の仕事は金属の曇りを取ること」
セシアは反論できなかった。展示室は再び、死んだ武具が静かに並ぶだけの場所へ戻った。
閉館時計が鳴ると、巡回警備員が扉の外を通った。ガロはいつものように点検札へ丸をつける。警備員は、展示台の足元に新しい灰袋が一つ増えたことにも気づかなかった。
セシアだけが、解説板に刻まれた『剣聖ガロ、享年四十二』の文字と、目の前の男を交互に見た。ガロは視線を無視し、兜の曇りをもう一度確かめた。
ガロは大剣に残った自分の指紋まで拭き取り、冒頭と同じ声で告げた。
「展示品には、触れないでください」