展示室の白い壁

 閉館の音楽が流れ始めた。

 璃子は展示室の白い壁の前で、匡臣の最後の作品を見ていた。青い海に、赤い椅子が一脚だけ置かれている。三年前、彼が海外へ行く直前に描き始めた絵だ。

「もう閉まるよ」

 背後から匡臣が言った。

「知ってる」

「明日の便、朝早いから、これで最後」

「また向こうで個展するんでしょ」

「来る?」

「遅いよ。もっと早く誘って」

 三年前、匡臣は空港へ向かう前、璃子に好きだと言った。

 璃子は仕事を始めたばかりで、恋愛のために予定を変える自分が怖かった。「友達でいたい」と答えた。匡臣は困った顔で笑い、それから本当に友達として連絡をくれた。

 離れている間に、璃子の気持ちは変わった。

 けれど、彼が一度差し出したものを断っておいて、寂しくなったから返してほしいとは言えなかった。好きになった時期が遅い。それだけが、口を閉じる理由だった。

「三年前の返事、まだ有効?」

 匡臣が作品票を外しながら聞く。

「急だね」

「閉館までに聞こうと思ってた」

「どうして」

「この絵、売れたから。もう日本に置いていけない」

「絵と関係ある?」

「璃子は、言葉より期限がないと逃げるから」

 館内スタッフが遠くから「あと五分です」と声をかけた。

 匡臣は絵を壁から外す。白い長方形だけが残り、三年間そこに何かあったような跡に見えた。

「今さら変わったって言ったら、勝手でしょ」

「勝手かどうかは俺が決める」

「匡臣は、もう待ってないかもしれない」

「待ってるとは言わない。俺も生活してたから」

「ほら、遅い」

「遅いなら、なかったことになる?」

 璃子は答えられなかった。

 遅れた電車には乗れない。でも、遅れた気持ちは、到着しなかったことにはならない。

「遅い」

 璃子はもう一度言った。

「でも、遅いから黙ってるのはやめる。私は今、匡臣と友達のまま別れたくない」

 匡臣は返事の代わりに、梱包用の布を半分持たせた。

 二人で絵を包み、角へ保護材を当てる。閉館時刻を過ぎ、スタッフが裏口を開けた。

 璃子は帰りのエレベーターで、来月の海外個展の案内を開いた。航空券の価格を見て閉じることはせず、開催初日の便を予約する。

 完了画面を匡臣へ見せると、彼は絵の反対側を持ち直した。

 白い壁には何も残らなかったが、璃子はもう、遅れたまま立ち尽くさなかった。