床屋の温かいタオル
雨の日、床屋「松葉」は客が少ない。
理容師の迅は、予約のない午後、入口の赤青白のポールを眺めていた。雨粒が硝子を流れ、三色が水の中で曲がって見える。
そこへ、大学生の渚生が飛び込んできた。
「前髪だけ、切れますか」
傘を持たず、髪から水が滴っている。明日、就職面接があるのに、鏡を見ると急に気になったらしい。
迅は椅子へ座らせ、まず温かいタオルを頭へ載せた。
「濡れてるのに、また濡らすんですか」
「これは温度を揃えるため」
本当は、冷えた顔色を戻すためだった。
タオルから石鹸と蒸気の匂いが立つ。渚生は目を閉じ、肩の力を抜いた。
前髪を少しずつ切る。床へ落ちた濡れた髪は、乾いた髪より重く、箒にまとわりついた。
「面接、苦手で」
「髪は一センチずつしか切れないからね。話も一言ずつでいい」
迅は鏡を見せた。大きくは変わらない。ただ目元がよく見える。
翌日の夕方、渚生が店の前を通った。傘を差し、背広姿だった。硝子越しに親指を立てる。結果はまだ先だろうが、面接は終わったらしい。
迅も鋏を持ったまま親指を返した。
店内には、昨日使ったタオルが乾燥機の中で回っている。扉を開けると温かな空気が頬へ触れた。外の雨の冷たさとは別の、誰かの緊張をほどいた石鹸の香りがした。
数週間後、渚生から採用が決まったと葉書が来た。前髪のことは一行も書かれていない。迅は鏡の脇へ葉書を挟み、次の客の首へ温かいタオルを巻いた。雨の日は相変わらず店が静かで、鋏の音がよく響く。硝子の外を学生が傘を斜めにして走るたび、迅はあの日の冷えた髪を思い出した。乾燥機から出した布には、蒸気と石鹸と、少しだけ晴れやかな紙の匂いがした。
面接の朝に降った雨は、葉書によれば駅へ着く頃にやんだらしい。迅はその一文を読み、乾いた前髪を想像した。鋏を置くと、タオルの湯気が鏡を白く曇らせた。