手綱のない騎士

国境の村へ、馬獣人ハーシュが突撃してきた。

 背には槍、口元には黒い轡。丘の上の敵将が一本の手綱を引くたび、彼の脚は望まぬ方向へ加速する。

「村を踏み潰せ!」

 命令が轡から血のように流れ込む。

 避難する子どもたちの前へ、辺境伯ヴィクトが一人で立った。

「どけ!」

 ハーシュは叫んだ。

「止まれない!」

「止める」

 ヴィクトは剣を抜く。

 敵将が笑った。

「殺せば済む。あるいは私の手綱を奪い、お前の紋章を轡へ刻め。最強の騎兵が手に入るぞ!」

 蹄が大地を割る。槍先が胸へ迫る。

 ヴィクトは横へ避けず、槍の柄を脇へ抱え込んだ。勢いで両足が土を削られても、剣先だけを轡へ伸ばす。

 一閃。

 切ったのはハーシュの喉でも手綱でもない。轡に刻まれた「所有者へ戻る」という一文字だった。

 帰属を失った術式は行き先を決められず、黒い金具ごと砕ける。外れた金具が土へ落ちた。ハーシュは自分の声で初めて「止まれ」と叫び、四本の脚がその声を聞いた。

 ハーシュは村の直前で自分の脚を横へ跳ばし、畑を大きく回って止まった。村人たちは彼へ石を投げず、子どもを抱いたまま道を空けた。

 丘の敵将が予備の手綱を掲げる。

「こちらへ戻れ! 契約はまだ——」

 ヴィクトは落ちた轡を踏み潰した。

「契約は金具と一緒に終わった。私の紋章を入れる場所もない」

 ハーシュは荒い息のまま、村とは逆の平原へ駆け去った。

 敵将は勝ち誇る。

「逃げたぞ。恩も知らん獣め!」

 次の瞬間、遠ざかった蹄音が円を描いて戻ってきた。

 ハーシュは丘へ向き直り、ヴィクトの隣で槍を構える。轡も手綱もない。風にたてがみが広がっていた。

「命令ではない」

 ヴィクトが確認する。

「もちろんだ。俺は村を踏まないと決めた。そして、お前を一人で立たせないとも決めた」

 敵将が退き、兵たちも崩れた。

 戦いが終わると、ハーシュは槍から敵国の布を外し、村の子どもがくれた青い紐を結ぶ。

「この旗の名は?」

「まだない」

「なら、手綱のない騎士団と呼ぼう」

 彼が自ら立てた槍の下に、誰にも引かれない二つの影が並んだ。