押入れの海へ流す前に
水城叶恵の押入れは、満潮になると海へつながった。
襖を開ければ暗い水面が揺れ、遠くで汽笛が鳴る。そこへ物を流すと、品物だけでなく、それに結びついた記憶まで二度と戻らない。
叶恵は、式を挙げなかった白いドレスを抱えて〈潮路不動産〉を訪ねた。
担当の潮路凪人は、晴天でも黄色い長靴を履き、胸ポケットへ潮見表を入れていた。
「濡れる前に、決めてください」
「忘れると決めました」
「何を?」
叶恵は答えられなかった。婚約を解消した相手か、招待状を送った恥ずかしさか、あのとき断れなかった自分か。全部なくなれば眠れる気がした。
凪人は潮見表を開き、満潮まで二十三分と告げた。
「流せば楽になりますか」
「少なくとも思い出しません」
「痛みを忘れることと、楽になることは同じではありません」
「不動産屋に何が分かるんですか」
「押入れの水位なら」
そっけなく返し、凪人は長靴のまま海へ入った。腰まで浸かり、沖へ黄色い浮標を打つ。ドレスを防水袋に入れて結べば、三十日だけ海上へ預けられるという。
「捨てるか残すか、今夜決めなくていい物もあります」
「でも、部屋に置いておきたくない」
「でしたら、視界から退去させます。記憶まで強制退去する必要はありません」
叶恵は袋へドレスを入れた。その拍子に、ポケットへ残っていた式場の案内カードが水へ落ちた。
白い紙はすぐ沖へ流れる。凪人はためらわず追い、長靴へ水を入れながら拾い上げた。
「それこそ要りません」
「要るかどうかを、海に決めさせないでください」
三十日の間に、叶恵はドレスの寄付先を探した。舞台衣装を作る学校が引き取ることになり、裾のレースだけを小さな布袋へ縫い直してくれた。
引き上げの日、押入れの海は穏やかだった。凪人が浮標を手繰り、袋を返す。叶恵はもう、それを海へ流したいとは思わなかった。
作業後、凪人が黄色い長靴を脱ぐ。中から大量の海水がこぼれ、靴下までびしょ濡れだった。
「ずっと濡れてたんですか」
「業務に支障はありません」
「それで『濡れる前に決めて』って」
凪人は潮見表で濡れた靴下を隠した。
「私の長靴の話ではありません」
叶恵の目から、ようやく涙が落ちた。凪人は見ないふりで襖を閉める。
「泣いて何も見えなくなる前に、自分で手放し方を選んでください、という意味です」