拍手は全員生成
瀬々良木修冶の演奏会は、毎晩満席だった。
七十六歳の彼が仮想ホールでピアノを弾くと、二千人の観客が息をのみ、曲の終わりに完璧な拍手を送った。観客AIは、演奏者がもっとも能力を発揮できる反応を生成する。咳をする者も、途中で帰る者もいない。
修冶は引退を撤回し、若いころより多く弾いた。指の震えは補正され、間違えた音は正しい音へ置き換えられた。レビューには毎回、《円熟の頂点》と並んだ。妻を亡くしてから誰とも話さない日が増えていたが、幕が上がれば二千人が彼を待っている。その事実だけで、部屋の静けさを忘れられた。
ある夜、拍手の中に一つだけ、遅れて鳴る音があった。
ぱち、ぱち、と拍がずれ、しかも途中で止まった。
修冶は腹を立て、運営AIへ削除を求めた。ところがAIは「生成反応ではありません」と答えた。遠隔清掃員が作業中、非常用回線から演奏を聞いていたらしい。
翌晩も、その拍手は来た。速い曲では慌て、静かな曲では忘れたころに一度鳴った。修冶はいつしか、二千人の完璧な観客ではなく、その一人へ向けて弾くようになった。
だが月末、遅い拍手が消えた。清掃契約が終了したという。
修冶は運営に住所を尋ねた。個人情報だと拒否されたため、彼は仮想ホールの公演を中止した。違約金を払い、補正なしの携帯ピアノを抱えて、清掃会社の事務所を一軒ずつ回った。
三週間後、郊外の病院の洗濯室で、その人を見つけた。片耳が聞こえず、手の関節が曲がった老女だった。
「拍手が下手で、ごめんなさい」
「下手だから、聞こえたんです」
修冶は乾燥機の前に椅子を置き、短い曲を弾いた。指は震え、三か所で音を外した。乾燥機が回り、廊下で台車が鳴った。老女は曲が終わる前に拍手を始めた。
修冶は笑って、最後の和音を弾き直した。
その後、彼の演奏会の客は十人を超えなかった。咳も、居眠りも、早すぎる拍手もあった。
けれど修冶は、間違えた音が誰かの耳へ届くたび、ようやく自分が演奏していると感じた。