敬語の内側

「現地でも、ハンドルネームで呼びましょう」

オンライン読書会の仲間と初めて会う前、奈良坂芙実は上条透へメッセージを送った。

芙実は《灯台》、透は《栞》。三年間、毎週日曜の夜に画面越しで本の話をしてきた。仕事を辞めた日も、眠れない夜も、二人は本名を使わず支え合った。

本当の名前を知ってからも、呼び方は変えなかった。互いの住所も顔も知らないのに、好きな作家も、苦手な月曜日も、声が少し沈む理由も知っていた。

ハンドルネームなら、近づきすぎても安全だった。好きになった相手に本名で拒まれるより、《灯台さん》のまま大切にされるほうがいい。

待ち合わせた古書市の日、朝から雨が降っていた。

透は紺の傘を持ち、芙実が想像していたより少し緊張した顔で立っていた。

「灯台さん?」

「栞さん」

二人は笑い、同じ傘へ入った。紙の匂いがする会場までの道で、透は芙実が濡れないよう、何度も傘を持ち替えた。画面越しなら途切れなかった会話が、肩が触れる距離では不思議と続かない。

古書市を見終えたころ、芙実の折り畳み傘が壊れた。透が駅まで送ると言い、再び一本の傘を開く。

強い風が吹き、芙実が滑りそうになる。

「芙実さん」

透の手が腰を支えた。

初めて本名で呼ばれ、芙実は立ち止まる。透はすぐ手を離し、「すみません、灯台さん」と言い直した。

芙実は首を横に振り、彼の空いた手を取った。

「訂正しないで」

駅前の喫茶店で、透は一冊の文庫本を渡した。挟まれた栞には、翌月の文学館の入場券が二枚。余白へ《芙実さんと行く》と手書きされていた。

芙実はスマホを開き、《栞さん》の連絡先を《透》へ変える。透の画面の《灯台さん》も《芙実》へ直した。そのまま次の日曜の予定を二人分登録する。

外へ出ると、雨はまだ続いていた。

「透、傘に入れて」

敬語まで外した呼び方に、彼の指が強く返事をした。

現地でもハンドルネームで呼ぶはずだった。

けれど相合傘の内側で本名を選んだことで、二人は画面の友人から、次に会う名前を持つ相手になった。