明日の私には内緒
浜路透子は、毎晩、自分が炎上したことを忘れた。
発端は十五秒の映像だった。講演会の舞台裏で、透子が若いスタッフを突き飛ばしたように見えた。実際には倒れてきた照明から助けたのだが、切り取られた映像の方が速く広まり、説明は言い訳として消費された。
脅迫、退職、家への落書き。透子は耐えきれず、「社会的外傷記憶」の削除を受けた。ただしネット上の記録は消せない。そこで毎日二十三時、炎上を知ってから眠るまでの記憶だけを消す設定にした。
朝の透子は穏やかだった。ところが端末には、前夜の自分から注意書きが並んでいた。
〈検索しないこと〉
〈玄関の赤い塗料を見ても警察を呼ばないこと。届け出済み〉
〈知らない人に撮影されても走らないこと〉
理由が分からないまま従うのは難しい。透子は検索し、そのたび初めて絶望した。夜になると削除し、翌朝また検索した。同じ炎上に三十七回傷ついたころ、施術担当者が言った。
「記憶を消しても、好奇心は消えません」
三十八日目、透子は注意書きを一行だけにした。
〈今日会う人を、昨日の敵だと決めないこと〉
検索履歴も映像も見ず、家を出た。駅で二人が透子を指さした。理由は分からない。怖かったが、知らない噂に反論する言葉もなかったので、ただ頭を下げて通り過ぎた。
透子は商店街の空き店舗を借り、以前から得意だったパンを焼き始めた。店名は自分の名前にした。匿名になれば楽だったが、忘れている自分だけが逃げ、覚えている人々へ影を残す気がした。
初日は窓に卵を投げられた。二日目は誰も来なかった。三日目、一人の老人が食パンを買った。
「何をした人か知らんが、これはうまい」
透子も、自分が何をした人とされているのか知らなかった。二人で笑った。
半年後、元映像の全編が公開され、誤解は解けた。しかし透子はその知らせも夜に消してしまった。翌朝、店の前に謝罪の花束が積まれている理由が分からず、一本ずつ近所へ配った。
その夜、透子は自動削除を解除した。
名誉が戻ったからではない。知らなくても一日を生きられることを、ようやく覚えたからだ。
翌朝、昨日の記憶は残っていた。透子は少し怯えながらパン生地をこねた。忘れられない一日が始まることを、以前よりも大切に感じた。