星明かりでは読めません
天文塔付きの侍女セシェは、夜になると必ずランプを置いた。
老星学者ノアグが書物へ顔を近づけすぎれば椅子を引き、散らばった星図を年代順に戻し、冷えた指へ薬草茶を渡す。彼女自身は文字を読めないと言い、難しい話には一度も口を挟まなかった。
ある夜、禁制星図の上で星が一つ動いた。
紙に描かれた銀点が縁まで滑り、卓上へ落ちる。
光は細身の人型となり、星屑の短剣を握った。《落星使い》。占星術で標的の未来を固定し、避ける可能性ごと刺し殺す天外の暗殺者だ。
ノアグの星盤には、すでに自分の死が示されていた。
どこへ逃げても、刃は心臓へ届く。
セシェがランプの芯を少し上げた。
炎が一度、揺らぐ。
落星使いは消えた。
机には星図と茶器しかなく、星盤の死相も途切れている。
しかしノアグの片眼鏡には、光の裏側が映った。
セシェは栞代わりの細い紙片を星図へ置き、落星使いの進路を一行だけ書き換えた。読み書きできないはずの指が、古代星字で「帰還」と描く。敵の短剣は彼女へ届く前に反転し、持ち主の星核を貫いた。人型は一筋の光となり、ランプの炎へ吸われた。
星の運命さえ訂正する手。
百年前、天帝の暗殺命令を星空から消した伝説の暗殺者《夜校正》の技だった。
セシェは禁制星図の銀点を墨で塗り潰す。星屑は濡れ布へ集め、ランプ油へ溶かした。卓上を拭き、ずれた星盤を北へ戻す。死の未来は、誤植を直すように跡形もなく消えた。
「字が読めないというのは、嘘だったのか」
ノアグが問う。
「学者さまの字は難しゅうございます」
「今のは古代星字だぞ」
セシェは薬草茶を取り替え、答えずに窓の鎧戸を閉じた。夜空には無数の星があるが、敵が降りた場所だけ小さく暗い。
老学者は追及をやめた。
命を救った女が、歴史書では百年前に死んでいる理由など、天文学より難しい。
セシェは新しいランプを机の中央へ置いた。
消された星ではもう一頁も照らせない。彼女は最初と同じ平凡な言葉を繰り返した。
「星明かりでは読めません」