最後の一音を消す
二十三時五十五分。羽澄志季はスタジオの送信ボタンへ指を置いた。
メジャーデビュー曲の納品期限は零時。五分以内にマスター音源をアップロードし、検収を通す。波形の最後に残った小さなノイズさえ消せば、十年かけた仕事が形になる。
モニターの中で、歌い手が笑う。
「もう一回だけ、聴こう」
メトロノームが四回鳴る。曲が終わる直前、かすかな咳と、スティックが床へ落ちる音。志季はその部分を切り、送信する。進捗が百パーセントになった。
二十三時五十五分。メトロノームがまた鳴った。
二周目は咳だけ消した。三周目は床音だけ残した。四周目は前後の無音を伸ばした。どの編集でも検収完了の瞬間に戻り、歌い手の笑顔まで同じ位置へ巻き戻る。
「もう一回だけ、聴こう」
五周目、志季は分離前の録音トラックを開いた。咳をしたのは、半年前に亡くなったドラマーの稜だった。病気を隠して参加した最後の録音。スティックを落とした後、マイクの外で小さく言っている。
「これで、俺の音は邪魔にならない」
レーベルは死者の演奏を宣伝に使うなと命じた。完成すれば志季だけが作曲家として表に出る契約で、稜の名は謝辞にも載らない。遺族も公開を望まない。遺族も公開を望まない。志季はドラムを打ち込みへ差し替え、稜の痕跡を最後の咳まで消そうとしていた。
七周目、完全なマスターができた。ノイズはなく、音圧も規定内。送信すれば契約金が入り、ツアーも始まる。
志季は再生を止めた。
八周目。編集済みファイルではなく、プロジェクトフォルダ全体を選ぶ。バックアップも、クラウドの履歴も、稜の生音も含めて削除確認へ進んだ。
歌い手の映像が口を動かす。
「もう一回だけ、聴こう」
「もう聴かない。売るためにも、残すためにも」
削除を実行した。
零時。納品失敗の通知が届き、契約は解除された。時計は零時一分へ進む。
メトロノームを止めると、スタジオは機械の熱だけを残して静まった。志季は十年分の未来と、友人の最後の一音を同時に失った。耳の奥では、消したはずのスティックだけが一度、床を打った。