最後の台詞を戻す
ゲームの更新配信まで四十分、江波戸文はヒロインの告白場面でコントローラーを置いた。
画面の台詞は〈あなたなんて嫌い〉。収録音声は、笑いをこらえるような柔らかい声で「嫌いじゃない」と言っている。後輩が自動翻訳の候補を採用した際、否定を一つ落としていた。
この一行は、物語の最後にしか出ない。発売後三か月かけて進めたプレイヤーが、ようやく見る場面だ。更新内容はすでに審査を通り、配信時刻をずらせば海外版も同時に遅れる。制作責任者は「音声で意味は分かる。次回の修正に入れよう」と言った。
文は直前の選択肢から再生した。字幕だけを読む設定では、主人公が突然拒絶されたままエンディングへ進む。音を出せない通勤中の人や、文字で遊ぶ人にとって、音声は答えにならない。
「配信を止めます」
文は修正データを作り、全言語版で否定表現を検索した。同じ翻訳メモリを使った別の二か所にも、意味が逆転した候補が残っている。後輩には、言い訳の報告書ではなく、場面の前後を三行ずつ付けた文脈メモを作ってもらった。
「一致率が九十九パーセントだったので、正しいと思いました」
「残り一パーセントが物語の全部になることもある。数字が高いほど、違うところだけを見よう」
文は台詞単位の確認から、選択肢と表情を含む場面単位の確認へ手順を変えた。否定、主語、好意の方向が変わる語には、自動で印が付くよう設定した。
配信は一時間遅れた。公式告知には「品質確認のため」とだけ書かれた。待っていた利用者から急かす声もあったが、修正理由を知ったテスト担当は、字幕設定だけで最後まで再確認した。更新後、最初に届いた感想は、〈三年待った二人がやっと笑った〉だった。後輩はその画面を保存し、文脈メモの見本へ添えた。
責任者は文へ、次作では進行管理に専念し、台詞確認を後輩へ任せる昇格案を示した。文は断り、空いていたローカライズリードの欄を指した。
「台詞から離れるためではなく、台詞を守れる立場へ上がります」
文は次作の担当を引き受けた。