最後の椅子を上げたあと

町の食堂には、開店日の集合写真が飾られていた。

若い店主夫婦、料理人、最初の客たち。

四十年後、そのうち半分は亡くなり、残りも遠くへ移った。

閉店を決めた夜、店主は最後の客を送り出し、椅子を一脚ずつ机へ上げた。

最後の一脚を持ち上げた瞬間、写真の中から声がした。

「まだ会計してない」

開店日の人物たちは、店内の椅子がすべて上がったあとだけ話した。

「初日に食い逃げした人だ」

店主が言うと、写真の若者が笑った。

「翌日払っただろ」

「利息が四十年分だ」

次々に声が重なった。

「味噌汁、最初はしょっぱかった」

「この店で妻へ告白した」

「子どもが生まれた日は、勝手に大盛りにしてくれた」

「喧嘩して、裏口から帰ったこともある」

写真の中の人々は、店主が忘れた日を覚えていた。

名物料理の話より、焦がした鍋や、雨漏りの日、財布を忘れた客の話ばかりした。

店主の妻は五年前に亡くなった。

集合写真では、誰より大きく笑っている。

店主は妻へ聞いた。

「閉めてよかったか」

妻は答えず、

「椅子、一本忘れてる」

と言った。

厨房の奥に、小さな子ども椅子が残っていた。

孫のために置いた物だが、孫は一度しか座らなかった。

店主がそれも持ち上げると、写真の声が一斉に消えた。

「ずるいぞ」

椅子を床へ戻す。

声が復活する。

妻が言った。

「店を閉めても、座る場所を全部上げなくていいでしょう」

店主は翌朝、閉店の貼り紙へ一行加えた。

「毎週水曜、昼だけ休憩所として開けます。料理はありません」

最初の水曜、誰も来なかった。

二週目、昔の客が一人、弁当を持って座った。

三週目には学生が宿題をし、買い物帰りの人が茶を飲んだ。

店主は湯を沸かすだけのつもりだったが、やがて味噌汁を出すようになった。

食堂は閉店したままだ。

注文も会計もない。

それでも椅子は毎週、床へ下ろされる。

夜、最後の椅子を上げると、集合写真が時々話す。

「今日の味噌汁、またしょっぱかった」

妻の声に、店主は言い返す。

「無料なんだから我慢しろ」

写真の笑顔は四十年前のままなのに、会話だけが現在へ少しずつ増えていった。