月を入れるグラス

 永海は、二客組で買った薄いグラスを一つだけ使っている。

 夏の初め、誰かとベランダで飲むつもりだった。けれど約束は何度も延期になり、やがて日付を決める話そのものが消えた。箱にはもう一客が包まれたまま、食器棚の奥にある。

 午前零時四十分、永海は使っているほうのグラスへ炭酸水と氷を入れた。

 ベランダへ出ると、室外機の風が足元の熱を押し返した。向かいの窓はほとんど暗く、屋上の赤い灯りだけが規則正しく明滅している。

 氷がグラスの中で回る。

 からん。

 室外機が回る。

 ごう。

 赤い灯りが点く。

 消える。

 永海は手すりのそばへグラスを持ち上げた。雲から出た月が、炭酸の泡の間へ小さく映る。手を傾けると、月も氷と一緒に回った。

 写真に撮って誰かへ送りたくなった。きれいなものを見つけたとき、宛先がないことは、見つけられなかったときより寂しい。

 スマートフォンを構えた瞬間、下の階で瓶を置く音がした。

 ことん。

 続いて「あ」と短い声。瓶が倒れかけたのかもしれない。手すり越しにのぞいても姿は見えず、すぐ椅子の脚を引く音だけがした。

 その人も何かを飲んでいるらしい。それだけで、月の価値が増えるわけではない。永海のグラスが二つになるわけでもない。

 永海はカメラを閉じた。

 写真にすれば、反応を待ってしまう。今夜の月は、誰にも渡さず自分の飲み物に浮かべておく。

 氷が一つ、細く割れた。

 からん、より小さな音だった。

 下の階では、さっきの瓶を持ち上げる音がした。椅子の脚が一度だけ鳴り、そのあとは静かになる。永海のグラスの底では、月の代わりに氷の欠片が白く光った。見せる相手がいなくても、きれいだった時間までなかったことにはならない。炭酸の泡は少なくなり、月はもう映らない。それでも永海は、空になる前の味を急いで終わらせなかった。

 永海は炭酸水を最後まで飲み、空のグラスを部屋へ持ち帰る。箱の中のもう一客は出さなかった。

 一つのグラスだけを洗い、伏せる。水滴の中で、さっきの月に似た白い照明が揺れていた。