月桶の映像

映像配信会社の槇村一穂は、月掬村の「月汲み」を中継した。二十九歳。満月の夜、井戸水を黒い桶へ汲み、月が映った瞬間を各家庭へ配信する祭りだった。

月汲みの夜、村人は桶を囲むが、誰も水面へ顔を向けない。過去の中継映像を調べると、毎年一人だけスタッフが翌年の画面にも映り続け、本人は二度と村へ来ていなかった。一穂は残像を利用した演出だと思い、むしろ配信映えすると企画書に書いていた。

村から渡された撮影指示書には、一つだけ禁止事項がある。

《月が映った桶の水を覗いてはいけない》

井戸端には虫の声がない。水は汲み上げた直後から鏡のように静まり、雲が月を隠しても、桶の中の満月だけは白く残り続けた。

カメラは真上から桶を撮る。人間はモニターだけを見ればいい。ところが本番直前、映像が左右反転した。遠隔の技術担当から「レンズを直接確認して」と指示が飛ぶ。

一穂は反射角を確かめようと、桶の縁へ顔を寄せた。水面に満月が入ったことに気づかず、一度だけ覗いた。

映っていたのは一穂ではなかった。東京の自室で、パソコンの前に座る一穂だった。こちらへ気づき、画面越しに助けを求めている。水面の中の彼が立ち上がった瞬間、桶の月が砕け、中継は正常に戻った。

帰路のスマホ画面は、黒くなるたび水面のように揺れ、背後に井戸端の一穂を反射した。

祭り後、一穂は自宅へ帰った。翌日のオンライン会議で、同僚が妙な顔をした。

「槇村さん、背景、昨日の村のままですよ」

一穂の画面には自室が映っている。だが参加者一覧のサムネイルだけ、月汲みの井戸端だった。桶の前にもう一人の一穂が立ち、濡れた手でカメラを叩いている。

背景設定を切っても、再起動しても消えない。会議を退出すると、同じ名前の参加者が一人残った。

【槇村一穂】こっちが本物です。

チャットに自分のアカウントから文字が届いた。一穂が返信しようとすると、システムが選択を求めた。

《同名の参加者が二名います。会議に残す槇村一穂を選んでください》

候補の一つは自室、もう一つは桶の中。

マウスポインターは勝手に、自室の方へ「退出」を付けた。