月面コロニーの予備席
酸素循環を止めたのは、主任技師イオリの更新プログラムだった。
新型フィルターへ切り替えた直後、居住区の酸素濃度が急降下。予備系統が作動し、百二十人は避難艇へ移された。負傷者はいない。だが備蓄酸素を四割使い、コロニーは一時閉鎖になった。
事故調査が終わるまで、技師権限は停止。制御室の扉は彼女の認証を拒み、赤い警告灯だけが点滅している。イオリは月面窓の前で私物をケースへ詰めた。
以前いた軌道基地では、小さな誤作動一つで地球便へ乗せられた。今回の損失は比べものにならない。アッシュたちも避難艇で先に帰るだろう。三人は事故対応で徹夜し、彼女のせいで帰還予定まで遅れた。責める声がないことが、むしろ決別の静けさに思えた。地球には彼らの家があり、ここには失敗した自分しかいない。ケースの蓋へ地球行きの荷札を貼り、自分の居住認証を削除しかけた。
発着区画へ行くと、操縦士アッシュが艇の起動鍵をイオリの端末脇へ置いた。
「最終便は自動操縦で出せる。俺は再開便の操縦士として残る」
「再開できる保証はない」
「だから鍵を置く。飛ぶ日まで預ける」
医師マルクスは避難用の医療箱を艇から降ろし、診療室へ戻していた。使用期限表の担当欄へ、イオリの名も書き足す。
「予備酸素で全員を守れた。次は予備系統を二重にする。健康監視は僕がやる」
植物管理士タリクは、事故で萎れた月豆の苗を一鉢だけ運んできた。居住区のイオリの机へ置き、育成灯を点ける。
「地球へ持ち帰るより、ここで次の空気を作らせる」
「私が壊した場所なのに?」
三人は否定しなかった。アッシュは運航記録を開き、マルクスは調査用の椅子を隣へ寄せ、タリクは苗の支柱を立てた。責任報告書には事故原因と再発防止策が並び、最後の担当者欄には四人の署名枠がある。
「また、一人で帰されると思った」
発着案内から最終便が消える。代わりに居住区の在室表示へ、四つの光点が残った。
閉鎖された月の家を、誰もイオリだけの失敗場所にはしなかった。