月面環状線の回送
月面都市の最終電車は、夜側へ入る五分前から動かなくなった。
宗像朔は一両だけの磁気列車に乗り、膝ほどの記憶核を抱えていた。地球の海、言語、音楽、百億人分の記録。太陽嵐が来る前に、夜側の地下保管庫へ届けるのが任務だった。
「回送区間へ入ります。窓から地球をご覧ください」
放送のあと、青い星が窓いっぱいに浮かぶ。残り十秒で電力が落ち、朔は発車地点へ戻る。
一周目は暖房を切った。二周目は照明を消した。三周目、生命維持装置まで止めた。列車はあと百メートルまで進んだが、記憶核の冷却装置が電力を食い尽くした。
「回送区間へ入ります。窓から地球をご覧ください」
周回するたび、朔は個人的な記憶を一つ失った。母の顔。初めて月へ降りた日の匂い。自分の誕生日。列車が不足分を脳から徴収しているのだ。
制御画面には質量超過と表示されていた。夜側へ到達する条件は、あと三十八キロを捨てること。記憶核の質量は四十キロ。朔の宇宙服を脱いでも足りない。
地球本部から通信が入る。
『核を守れ。それが人類だ』
窓の青い星には巨大な白い嵐が渦巻いていた。地球との通信は数分後に途絶える。記憶核を捨てれば、月の生存者は故郷の歴史を失う。運べば、この五分を繰り返し、朔の記憶だけが先に尽きる。
四周目、朔は記憶核を非常射出口へ載せた。
『任務を放棄するな』
「これは人類じゃない。人類が置いていった荷物だ」
ロックを外す。核の表面に、海辺を走る子供たちの映像が流れた。朔もその一人だった気がするが、もう名前を呼べない。
「回送区間へ入ります。窓から地球をご覧ください」
射出。
四十キロの記憶が月の空へ放たれ、青い星を背景にゆっくり回った。列車は軽くなり、初めて夜側へ加速した。
終点の地下保管庫には、空の棚が並んでいた。朔は任務番号を入力しようとしたが、自分が何を運ぶはずだったのか思い出せない。
窓の遠くに地球がある。美しいと思った。なぜ胸が痛むのかは分からなかった。
最終電車は回送表示のまま扉を閉じた。朔は誰も待っていない月の夜へ、一人で降りた。