朱肉の匂い

市立美術館の総務補助、椎橋佳澄は、朝九時に新しい朱肉を開けた。速乾性で、少し柑橘に似た匂いがする。備品台帳へ九時五分と書き、古い朱肉と交換した。

その日の警備業務入札には三社が参加するはずだった。ところが開札直前、二社の辞退届が契約担当者の机から出てきた。どちらも前日付で、代表者印が押されている。残った一社は予定価格の九九・九パーセントで落札候補になった。

佳澄が辞退届を綴じようとすると、印影から朝開けた朱肉と同じ匂いがした。日付どおり前日に押されたなら、強い匂いが残るはずはない。指で触れると、赤がわずかに移った。

さらに二枚の下には、吸い取り紙が挟まっていた。表には、二社の代表者印が左右に反転して写っている。紙の隅に、佳澄が今朝貼った備品管理シール『9:05交換』が付いていた。新しい朱肉の下に敷いていた紙だった。

つまり辞退届は、外部の二社で前日に作られたのではない。今朝、この契約担当者の机で、二社の印鑑を使って押された。

最終決裁会議で、担当者は「競争参加者が自主的に辞退した」と説明した。館長が契約書の決裁欄を開く。佳澄は辞退届と吸い取り紙を並べた。

「昨日押した印鑑の跡が、今朝交換した紙に写るでしょうか」

担当者は朱肉なら似た匂いがすると言った。佳澄は管理シールの時刻を指した。二つの印影は、鏡のように辞退届と一致している。

館長は一枚を鼻へ近づけ、次に指先の赤を見た。契約書へ向かっていた印鑑が、ゆっくり机へ戻された。

契約担当者は、外部業者が自分で印鑑を持参したのだと言った。佳澄は鍵管理簿を開いた。入札参加登録のため預かっていた二社の使用印が、八時五十七分に担当者のカードで保管庫から出され、九時十二分に戻されている。辞退届の受付時刻は九時十五分。二社の人間が来館した記録はない。印鑑も、朱肉も、紙も、すべて館内にあった。

柑橘に似た匂いだけが、止まった決裁の上に残った。