栗がほどける小鍋
鷲尾玲司は、昇進を断るつもりで店へ来た。
二十六歳。システム開発のチームで最年少なのに、来月からリーダーを任せたいと言われた。前任者は、夜中まで障害対応を続けて休職した。上司は「君なら回せる」と言ったが、その言葉は期待より、人手不足の説明に聞こえた。
引き受ければ同じように潰れる。断れば逃げたと思われる。その二択を頭の中で往復しながら、玲司は秋限定の「栗と鶏の小鍋」を頼んだ。店にはほかの客はいない。
一人用の鍋で、出汁がふつふつと鳴る。鶏の脂に栗の甘い香りが混じり、蓋を取ると白い湯気が眼鏡を曇らせた。丸い栗の一つは煮崩れ、黄色い欠片が汁へ溶けている。
「崩れてますね」
玲司が言うと、店主は鍋を覗いた。
「その分、出汁は甘いです」
玲司は崩れていない栗から食べた。ほくりと割れ、中は熱い。次に汁を飲むと、確かに栗の甘さが全体へ回っていた。
前任者は能力が足りなかったのではない。全部を一人で形のまま抱えたのだ。ならば、引き受けるか断るかの前に、崩れない条件を作るべきかもしれない。
玲司は会社のメモを開き、昇進の返答を書き直した。
〈役割は受けたいです。ただし、夜間一次対応の当番制、コードレビュー担当の追加、月二回の上長面談を開始条件として相談させてください〉
強気すぎる気もした。条件を嫌がられ、話そのものがなくなる可能性もある。それでも、何も言わずに「回せます」と答えるよりはましだった。
翌朝の面談予約を入れる。承諾ではなく、相談の予約だった。
条件を書いた画面を見て、玲司は一つ追加した。前任者の復帰を急がせないこと。自分の待遇だけを守る提案では通りにくいかもしれないが、同じ席をまた誰かの消耗で埋めるのは違うと思った。それも面談で、きちんと言うつもりだった。
鍋の底には、もう丸い栗は残っていなかった。玲司は黄色く濁った出汁をすくう。鶏の塩気の中にほどけた甘さがあり、舌を火傷しそうな温度だけが、簡単には冷めなかった。