校了後の名前

「校了までは私情禁止です」

校閲の瀬尾玲奈は、編集者の牧野和樹に何度もそう言った。

担当する恋愛小説の最終稿は、直しても直しても新しい矛盾が見つかった。牧野が夜食を差し入れても、帰りのタクシーを一緒にしようとしても、玲奈は赤鉛筆を持ち上げる。

「校了までは」

「分かってます」

本当は、分かってほしくなかった。原稿が終われば、毎晩会う理由もなくなる。仕事を盾にしたのは、近づかれるのが嫌だからではなく、終わるのが怖かったからだ。

午前零時七分。最後の一行から不要な読点を消し、玲奈は校了印を押した。

「終わりました」

「お疲れさまでした」

牧野は静かに頭を下げた。喜ぶと思ったのに、あまりに仕事らしい声で、玲奈は胸が冷えた。

窓の外では、早朝便に積む本を運ぶトラックが白い息を吐いていた。玲奈は机の端に残った二人分の紙コップを見た。片方だけを捨てる日が来たようで、指が動かなかった。

彼は赤鉛筆を返してくる。軸には使い込んだ歯形ではなく、新しい金文字で〈RENA〉と刻まれていた。

「これ、私のでは」

「今までのは短くなりすぎたので。校了祝いです」

続いて牧野は、最終校の余白を一枚開いた。印刷所へは送られない確認用紙。その下部に、彼の字で予定が書かれている。

〈日曜十一時 書店で完成本を見る〉

〈十二時半 二人で昼食〉

〈以降 未定〉

校正記号のように、〈二人〉へ丸がついていた。

「これは誤記ですか」

「瀬尾さんに判断してもらおうと思って」

「校了後の修正は原則できません」

「では、そのままで」

玲奈は新しい赤鉛筆を取り、〈未定〉を二重線で消した。横へ〈次の約束を決める〉と書き足し、最後に大きく「採用」の丸をつける。

牧野が初めて、仕事の外の顔で笑った。

「玲奈さん」

「はい、和樹さん」

二人は原稿を封筒へ収めた。牧野が差し出した手に、玲奈は赤鉛筆ではなく自分の手を重ねる。印刷所への発送箱を閉じても、その手だけは閉じ込めなかった。

校了までは私情禁止。

校了印が乾いた瞬間、その言葉は、二人を止める規則から、二人を始める合図へ変わった。