欠けたカップ
閉店後の喫茶「遠火」で、榊原航と阿久津環は、離婚届ではなく店の売買契約書を挟んで向かい合った。
二人が別れて五年。
共同名義の店だけが残った。
環は判を押し、朱肉を拭いた。
「これで終わりね」
航はうなずいた。
最後にコーヒーを淹れた。
環の前には、縁が三角に欠けた黄色いカップを置いた。
「まだ使ってたの」
「客には出してない」
娘が小学生のとき、図工教室で絵付けしたものだった。黄色い地に、青い脚の猫が三匹。猫の一匹は天地が逆だった。
娘が亡くなった夜、環が床へ落とした。
熱が下がらないのに、航が店を閉めるのを優先したと責めた。
航は、病院へ連れていかなかったのは環だと言い返した。
カップは二人の間で割れ、欠けた破片だけ見つからなかった。
本当は、医師から何度も説明されていた。
数時間早くても結果は変わらなかった、と。
二人とも知っていた。
知っていて、自分を責め続ける代わりに、相手を責めた。
環は黄色いカップを持ち上げた。
欠けた縁を避けて一口飲む。
「私ね」
声がそこで切れた。
航は待った。
「あなたが悪くないって認めたら、私だけが悪い気がした」
「俺も同じだ」
「だから、ずっと怒ってた」
「うん」
「ごめんなさい」
「俺も」
カップが、かすかに鳴った。
硬貨を置いたような、小さな音だった。
環が手元を見る。
三角の欠けがなくなっていた。
継ぎ目も、色の違いもない。青い脚の猫だけが、昔のまま逆さになっている。
二人は驚いた声を出さなかった。
長く悲しみすぎると、起きてほしかったことと、起きるはずのないことの境目が薄くなる。
環は指で縁をなぞった。
「戻った」
航は首を振った。
「同じじゃない」
「そうね」
娘は戻らない。
夫婦にも戻らない。
契約書の印も消えない。
それでもカップは、口を傷つけずに飲める形になった。
二人は閉店後の店で、最後の一杯をゆっくり飲んだ。
帰り際、環が黄色いカップを紙に包む。
「もらっていい?」
「半分ずつにはできないからな」
「じゃあ、たまに貸す」
「洗って返して」
店の灯りを消し、別々の方向へ歩き出した。
角を曲がる前、環が振り返ってカップを掲げた。
航も手を上げた。
終わったものは元に戻らない。
だからこそ二人は、欠けていないものを、今度は落とさずに持って帰った。