死者の声を遠ざける塩灯泉

 塩湖の宿《静葬館》では、客室の壁が厚い。

 それでも主人ベネットには、客イゼルが両耳を塞いでいる理由が分かった。若い死霊術師の周囲だけ、誰もいない廊下から囁きが漏れていたからだ。

「墓地を浄めた日から、死者の声が全部ついてくる」

 願い、恨み、最後の言葉。百人分が昼夜を問わず耳元で重なり、イゼルは九日眠っていない。明日は法廷で一人の死者の証言を伝える役目があるのに、どの声か選べない。

「声を消せば証言も失う」

「消しません。一晩だけ、席を外してもらいます」

 ベネットは塩灯泉へ案内した。壁一面の岩塩が、炎もないのに橙色に光っている。

 イゼルが湯へ入ると、囁きが一斉に大きくなった。若い声、老人の声、言葉にならない泣き声。死者たちは置き去りにされると思ったらしい。岩塩の灯には、声の数だけ小さな影が映った。

「全員を救わなければ、私が術師になった意味がない」

「眠らない術師に、明日の一人を救えますか」

 ベネットの問いに、イゼルは返せなかった。

「静かにしろ!」

「命令では離れません。今夜は聞かないと、伝えてください」

 イゼルは唇を噛んだ。やがて一人ずつへ向けるように言う。

「明日、戻る。だが今夜は眠る」

 岩塩の灯が明るくなる。囁きは細い煙となって耳から抜け、壁の結晶へ吸われた。声は閉じ込められたのではない。宿の壁際へ並んで、夜が明けるまで静かに順番を待つ。

 最後の声が消えた瞬間、世界には湯の流れる音だけが残った。イゼルはその音を何度も確かめ、やがて湯船で舟をこぎ始めた。ベネットは溺れないよう木枕を差し入れ、そのまま朝まで寝かせた。

 七時間後、目覚めた術師の顔から隈が消えている。本人は「こんなに長く職務を放棄した」と青ざめたが、ベネットは宿帳に《休息一泊、完了》とだけ記した。耳を澄ますと、岩塩から必要な一人の声だけが返った。

「聞き分けられる。これなら証言できる」

 法廷後、無罪判決の写しと銀貨が宿へ届いた。銀貨は二夜分。

『今後は死者を救う前に、自分を一晩休ませる』

 ベネットが二つ目の日付を帳面へ記す。

 塩灯がふっと強まり、同時に玄関の鐘が低く響いた。