母語オプション
三枝慶介は毎朝、洗面台の前で《言語メモリ》を更新する。公用語一つは無料だが、方言や外国語など、二つ目以降の言語記憶には月額料金がかかる。意思疎通の混乱を減らすため、未契約の言葉は意味を持たない音として処理される。それが唯一の規則だった。
慶介は標準語と、祖母の故郷の方言を契約していた。
幼い頃、両親が夜勤の日は祖母の澄枝に預けられた。昔話も、叱る声も、熱を出した夜の子守歌も、全部その方言だった。眠れないときには、同じ短い言葉を三度繰り返して背中を叩いてくれた。学校ではからかわれたが、祖母と二人で話すときだけは使い続けた。
東京の会社へ就職して三年、物価が上がり、言語プランも値上げされた。月額八百円が二千四百円になる。会社では標準語以外を使う機会がなく、利用履歴には〈月間三分〉と表示されていた。
「ばあちゃんと話すだけだしな」
慶介は方言オプションを解約した。祖母には標準語で話してもらえばいい。意味が消えても、声まで消えるわけではない。
翌朝、病院から電話が来た。祖母が倒れ、意識が戻らないという。
慶介が駆けつけると、澄枝は酸素マスクの下で目を開けた。医師が「ご家族へ伝えたいことがあるそうです」と席を外す。
祖母の唇が動いた。
懐かしい抑揚だった。けれど耳へ届くのは、波のような音だけだった。
「ばあちゃん、標準語で言って」
澄枝は困ったように笑った。認知症が進み、幼い頃の言葉しか残っていなかった。
慶介は再契約を押した。
〈解約後三十日間は再加入できません〉
〈衝動的な言語切替による認知負荷を防止しています〉
祖母はもう一度、同じ言葉を言った。細い指で慶介の手を二度叩く。それは昔、眠る前に必ずしてくれた合図だった。
数分後、心電図の音が一本になった。
葬儀の日、親戚が録音を聞いてくれた。
「『おまえが孫で、よかった』って言ってる」
慶介には、雑音にしか聞こえなかった。
更新画面には、再加入まであと二十七日と表示されていた。