水のない高層階
午前二時、三十二階建てホテルの上層階で水が出なくなった。神代颯が地下機械室へ着くと、給水ポンプは石を噛んだような音を立て、床には細い水筋が伸びていた。
設備主任は予備ポンプへの切替を急いでいた。「本機のメカニカルシールが漏れた。予備なら朝まで持つ」
颯は切替ボタンを押さず、吸込側の圧力計を見た。貯水槽は満水なのに、ポンプ入口の圧力だけが異常に低い。音も軸の故障ではなく、羽根が水をつかめず泡を潰すキャビテーションに近かった。
「予備も同じ配管から吸います。今替えたら二台とも傷みます」
配管をたどると、共通入口の逆止弁が半開きで止まっていた。前夜の停電試験で水が逆流し、弁の軸に錆片が噛み込んだらしい。狭くなった通路で水が足りず、本機は空気を巻き込み、その振動でメカニカルシールまで漏らしていた。
主任はハンマーで弁を叩こうとした。颯は上層階への給水を一度完全に止め、配管内の圧力を抜いた。圧が残ったまま弁を外せば、地下室へ大量の水が噴き、電動機まで浸かる。
上階からの苦情電話が増え、主任は作業時間を伏せたがった。颯は復旧見込みを一度だけフロントへ伝え、その時刻までは更新しないよう頼んだ。五分ごとの催促で弁を途中まで組み戻すより、客には非常用の水を配る方が早い。機械室の焦りを客室へ、客室の焦りを工具へ持ち込ませなかった。
弁を分解すると、茶色い錆片が皿の縁に挟まっていた。颯は錆片を除き、傷の付いた軸を交換した。さらに漏れ始めたメカニカルシールも替える。原因だけ直しても、すでに傷んだ箇所は元へ戻らない。
低速で本機を起動すると、吸込圧が戻り、砂利のような音が消えた。予備ポンプも短時間回し、同じ症状がないことを確認する。
午前五時、上層階から「水が出た」と内線が続いた。主任が胸をなで下ろす横で、颯は停電試験後に逆止弁を確認する項目を点検表へ追加した。
ロビーでは朝食の仕込みが始まっていた。工具箱を閉じた颯の携帯へ、厨房の食器洗浄機が排水しないとの連絡が入った。ホテルの一日は、水より先に流れ始めていた。