水槽を運ぶ夜
芦田弦一が事故で入院した夜、問題になったのは熱帯魚だった。
本人は鎖骨を折り、二週間戻れない。部屋には九十センチ水槽があり、餌と水温の管理が必要だ。城戸征也は「病院から業者を手配させろ」と言った。
弦一とは一月前から口をきいていない。共同費で買った掃除機を壊し、弁償の話を先延ばしにしていたからだ。
だがその晩、エアコンが故障した。弦一の部屋は真夏の熱気がこもり、水温計は三十度を超えている。魚を共用部の冷房が効く場所へ移すしかない。
病院から届いた短いメッセージには、餌の量より先に〈床を濡らすな〉とあった。征也は腹を立てながら、指示どおりコンセントを抜き、フィルターの水を確保した。水を半分抜き、石と流木を別のバケツへ入れる。それでも水槽は重い。征也はほかの住人を呼び、四人で持ち上げた。
「傾けるな」
「床、濡れてる」
「タオル先に敷け」
弦一がいないのに、全員が彼の口調を真似て指示を出す。腹が立つほど細かく世話をしていたらしい。
途中、台の引き出しが開いた。中から小さなノートが落ちる。水換えの日付、餌の量、魚の体調。その末尾に、住人の帰宅時間まで書いてあった。
〈征也、夜勤。廊下を静かにする〉
〈新入り、食欲なし。余った餌ではなく人間用の飯を確認〉
〈掃除機、異音。買い替え必要〉
壊したことを隠していたのではない。修理代を貯める欄もあり、残額まで記されていた。
征也はノートを閉じた。許す理由には足りない。だが水槽を落とす理由にもならない。
居間の壁際へ設置し、水を戻す。魚はしばらく底に隠れたあと、一匹ずつ泳ぎ始めた。征也は病院へ写真を送る。既読はついたが、返信はない。
翌朝、共同当番表の下に新しい表が貼られた。朝の餌、夜の水温、週末の水換え。征也は自分の名前を水換え欄へ書き、掃除機の弁償欄は消さずに残した。
退院予定日の列には担当者名を書かなかった。代わりに〈本人〉と記し、水槽脇の椅子を一つ空けた。弦一の部屋の鍵は管理箱へ戻さず、魚のノートの上に置かれていた。