泣けない編集者

御子柴汀は、物語に感動できない編集者だった。

出版社では、原稿を読んだ編集者の感情点で刊行作が決まる。涙、興奮、恐怖、恋情のいずれかが八十を超えれば会議へ進む。汀の担当作は売れていたが、本人の反応はいつも低かった。

新人の恋愛小説を読んでも恋情十二。家族の死を描いた作品でも悲嘆八。上司は「読者の心が分からない人間に本は選べない」と、汀を校閲部へ移した。

汀は反論できなかった。彼女は文章を読むと、感情より先に継ぎ目が見えた。人物が嘘をついた行、視点が逃げた一文、削れば呼吸が戻る段落。泣けはしないが、直したい場所だけは分かった。

ある夜、廃棄箱で神余綾乃という無名作家の原稿を見つけた。

老女が毎朝、存在しない駅へ弁当を届けるだけの話だった。事件も恋も起きない。感情AIの総合点は三だった。

汀も泣かなかった。心拍は平常、涙腺反応もゼロ。会社の端末は〈市場価値なし〉と自動で判を押した。

それでも終電を逃すまで赤字を入れた。翌日も、その次の日も、文章の中の駅へ戻った。老女が弁当の梅干しを毎回少しずつ変える理由を考え、作者へ十七通の質問を送った。なぜ気になるのか、点数には表れなかった。

会社は刊行を拒んだ。神余も「売れないなら仕方ない」と原稿を諦めかけていた。汀は初めて、点数では説明できない執着を他人へ押しつけた。「直したので、読まれるところまで責任を持たせてください」。退職金を使い、千部だけ自費で刷った。書店への営業も自分でし、売れ残りをアパートに積んだ。

半年で売れたのは二百十三部だった。

そのうちの一冊を読んだという男性から、短い手紙が届いた。認知症の母が毎日、亡い父の弁当を作っていた。家族はやめさせようとしていたが、小説を読んで、弁当を一緒に包むようになったという。

汀の感情端末は、手紙を読んでも悲嘆十五、喜び二十二だった。

ただ、翌朝から小さな出版社を作る手続きを始めた。

社名は「三点社」にした。刊行基準は一つだけ。

〈読み終えたあと、もう一度そこへ戻りたくなるか〉

測定器は、その感情の名前を最後まで見つけられなかった。