洗われた血旗
島貫権八は、夜の川で軍旗を洗っていた。
白地は三日分の血を吸い、褐色に固まっている。旗を絞ると、誰のものとも分からない血が爪の間へ入った。敵の物見はそれを見て、旗の下の隊が替わっていないと知る。昨日までに百二十人が死んだことも、おおよそ読んでいる。
軍監が新しい旗を持って来た。
「朝にはこれを上げろ。援軍が着いたと思わせる」
権八は新旗の紋を見た。丸の内の鷹羽が、古旗より指一本高い。
「敵は気づきます」
「夜目に紋の高さまで見るか」
「こちらが援軍を装うと待っているなら、見ます」
敵将は元染物師だった。布の織り、染めの濃さ、雨に濡れた時の縮みまで見分けるという。新旗を出せば偽装だと告げるようなものだった。
権八は古旗を灰汁で洗った。血は落ちるが、矢穴と刀傷は残る。遠目には新しく、近くで見れば三日を生きた旗だ。
「穴が多すぎる」と軍監が言った。
「援軍の旗ではありません。生き残った隊が、まだ血を流せると見せる旗です」
「それで敵が退くか」
「退きません。攻め時を迷います」
必要なのは一刻だった。背後の山道から、本当の援軍が来る。敵が今夜総攻めすれば間に合わない。
権八は洗った旗を河原の石へ広げた。落ちた血が川を薄く染める。布の裏には、死んだ旗持ちたちが指で書いた名が残っていた。灰汁でも、黒くなった指文字は消えない。
「新旗なら軽いぞ」と軍監が言った。
「死人の名がないからです」
夜明け、権八は古旗を城外の土塁へ運んだ。白地は朝霧の中で眩しい。敵陣の望楼から鏡が光り、観察の合図が飛ぶ。
権八は旗を一度、裏返した。名を書いた側を敵へ見せるためではない。朝日を透かし、無数の矢穴をはっきり見せるためだった。新品ではない。昨夜まで血に濡れていた同じ旗が、白く戻っている。
敵陣の太鼓が鳴りかけ、止まった。新手か、残兵か。敵将は読み切れず、斥候を出す。
その時、背後の山から法螺が一声届いた。本当の援軍だった。
軍監が息を吐く。
「権八、表へ返せ」
洗われた鷹羽の旗が、朝日に正しく上がった。